22 行ってらっしゃい
やっと帰って来た……。
朝靄にけぶる我が家を見上げ、秋雪は胸に熱いものがこみ上げて来るのを感じた。
一週間、そうだ一週間ぶりの我が家だ。
総合病院で救命救急医をしている秋雪の仕事はいつも忙しいが、それにしてもこの一週間は酷かった。五台の車が次々に玉突き衝突したという交通事故を皮切りに、ふざけていて校舎の二階の窓から転落した中学生やら、親が目を離した隙に風呂で溺れた子供やら。
軽症重症入り乱れ、次々と運び込まれて来る患者の対応に追われ、家に帰るどころか休息も満足に取れない状態が続いた。
いや、忙しさは秋雪にとって苦にはならない。人の命を救うこの仕事に責任と誇りを持っているから、どんなに忙しくても平気だと思っている。ただ、秋雪を苦しめるのは家族に会えないことだ。同じ病院に勤めている妻・十和子とは毎日顔を合わせることが出来るが、可愛い子供たちには会えない。自他共に認める子煩悩な秋雪にとって、それだけが苦しみなのだ。
晴音は大きくなっだだろうか、いくら成長期とは言えさすがに一週間ぽっちで変わってはいないか。雪都は元気だろうか、晴音の面倒を見させてしまっているが受験勉強は出来ているだろうか。
などと考えながら秋雪は、家に入った。まだ夜が明けたばかりの時間だ、家族はまだ眠っている。
疲れきった体は、今すぐにベッドに横になることを要求していた。けれど、秋雪は家族が起きて来るのを待とうと思った。起きて来た子供たちにおはようを言ってから休もう、そう思った。
しかし、そうは思うものの今にも瞼がくっついてしまいそうだ。
コーヒーでも淹れるかと、秋雪はキッチンに向った。ついでに家族の分も淹れておいてやろう。目覚めのコーヒーは神経に刺激を与えるから、爽やかな一日のはじまりには理想的だろう。
コーヒーメーカーを取り出して、秋雪は慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。コポコポと、微かな音が静かなキッチンに響く。
しかし、それにしても疲れた。昔はこれくらいの徹夜は何ともなかったのに、やはり歳だろうかと秋雪は椅子を引き、少しだけと腰を降ろした。しかし、その数秒後にはダイニングテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。コポコポという、コーヒーメーカーの作動音を子守唄に、秋雪は深い眠りの底へと一直線に落ちて行った……。
ドタドタドタドタ――ッと、もの凄い勢いで階段を降りて来る音と、「寝過ごした!」と叫んでいる息子の声で秋雪は目覚めた。のろのろと顔をあげると、体のあちこちが痛い。たいした時間ではなかったが、変な体制で寝ていたせいだろう。
「晴音、急げ!マッハで着替えろ」
「合点だ!」
娘の声も聞こえた。
秋雪は、ふらふらと立ち上がった。雪都、晴音、可愛い可愛い子供たちよ……。
「お兄ちゃん、朝ご飯は?」
「朝飯と遅刻しないのと、どっち選ぶ?」
「遅刻しないの!」
保育園の園長ラブな晴音は、朝食よりも健の傍に一秒でも早く駆けつける方を迷いなく選択する訳だが、そのあたりの事情をよく把握していない秋雪は、うちの娘は真面目だなどと的外れなことを思ったりして。
「じゃ、走りながら食え」
秋雪がいるキッチンへと、まるで風のように雪都が駆け込んで来た。一週間ぶりの息子よと、秋雪が伸ばした手を故意か偶然かひらりと避けて、雪都は棚の上に置いてあった中にマーガリンが入っているバターロールの袋を掴むとすぐに出て行ってしまった。
「ほら、食え」
「わんっ!」
秋雪が雪都の後を追って廊下に出た時、雪都が投げたバターロールを晴音が口でナイスキャッチしたところだった。
「雪都、はる……」
「雪都、晴音は私が送って行きますから、あなたは学校にお行きなさい」
子供たちの名を呼ぶ秋雪の声は、凛とした十和子の声によって掻き消された。秋雪と同じ病院に看護師として勤めている妻もまたこの一週間は悪夢のように忙しかった筈だが、秋雪より一足先に、昨夜のうちに自宅に戻れたのだ。子供達と同じく寝過ごしはしたものの、一晩ぐっすり眠ったせいかいつも通りの聖母の笑顔を浮かべている。
そんな母の言葉に雪都は、バターロールをかじりながら玄関先で振り向いた。
「お袋、時間あんの?」
「今日は、代休ですから」
先週の非番が潰れた代わりの休み、ということらしい。
「んじゃ、頼む」
そう言うと、雪都は扉を開けて飛び出して行ってしまった。陸上部に所属する息子のスピードに、まだ半分寝惚けている秋雪が追いつく筈もなく……・。
「ゆ、ゆきと……」
秋雪の伸ばした手は、またもや虚しく空を彷徨った。しかしその手の先で、晴音のピンクベージュの頭が振り向いた。ロールパンをくわえたままでもぐもぐと口を動かしているその姿に、一瞬にして秋雪の胸は暖かなもので満たされる。
「は、晴音、おは、おは、おは……」
おはようと言うだけで、しかも娘相手に何故にどもるのかはわからないが、秋雪が壊れたレコードのように「おはおは」と繰り返してる数秒で、晴音もまた外に飛び出してしまった。
「お母さん、早く!遅刻しちゃうよ」
はいはいと答えながら、十和子は手を伸ばしたままで固まっている秋雪の横を素通りし、これまた外に出て行ってしまう。
「あ、あなた。お休みになるのでしたら、ちゃんと鍵をかけておいてくださいね。最近は何かと物騒ですから」
そうだけ言うと十和子は無情にも、バタンと扉を閉めてしまった……。
「……行ってらっしゃい」
嵐が過ぎ去った後の静けさにひとり取り残されて秋雪は、誰も聞く人のいない見送りの言葉を小さく呟いた。
いつもいいねを入れてくださる方、本当にありがとうございます。
いいねが入ってるのを見るたびに、頑張って続けようと思う。
誤字報告もありがとうございます、助かります。
いくら気を付けても誤字やら変換ミスやらは、なくならないものですね。
特に今作は、二次制作をオリジナルに直しているので、直し忘れてるところがあるかもしれません。
気づいたら教えてください!




