21 夕暮れから目をそらす
閉館間近になって現れた柊也の斜め少し後ろに控えセスナは、「お先に失礼させていただきます」と丁寧に頭をさげた。それに対して怜士の母であり、セスナの華道の師である美里は、「とても助かりました、ありがとう」と、これも丁寧なお辞儀を返した。
それでは失礼と踵を返した柊也に従って、セスナは小走りに歩きだした。柊也とセスナでは身長差がかなりあるため、自ずとその歩幅には差が出来てしまう。柊也は急ぐでもなく歩いているのだが、セスナは柊也の倍の速度で足を動かさないと置いて行かれてしまうことになる。
柊也は、パタパタと追いかけて来るセスナには一瞥もくれずに田之倉流の展示会会場を出て、そのまま会館の地下にある駐車場に向った。セスナは黙って柊也の後を追いかける。待ってくださいとか、もう少しゆっくり歩いてくださいとか、セスナは絶対に言わない。いや、言えないのだ。
亡き姉の夫である柊也がセスナはどうしても恐かった。素っ気ない態度が冷たくは感じられるが、柊也はセスナを叱ったりしたことはない。叱られたことなど一度もないのに、それでもセスナは柊也が恐いのだ。
赤の他人であるセスナを妹としてきちんと遇してくれる柊也を、セスナは本当に本心から慕っている。柊也は、優しい人なのだ。そうでなければ、美空が死んだ時にセスナなど放り出していただろう。なのに柊也は、セスナを正式に養女として迎えてくれたばかりではなく、望む学校に進ませてくれ、何不自由ない生活を与えてくれている。
優しい人だとわかっている、だけど恐い。
いや、だからこそ恐いと言うべきか。
柊也の不興を買うことが、セスナは何より恐ろしかった。飛鳥井家から放り出されたら行く所がないからとか、そんな理由で恐いのではない。兄として尊敬する柊也に、くだらない妹だと思われたくない。自慢の妹になれる自信はないが、せめて柊也の恥にならない程度ではありたい。
言葉使いや立ち振る舞いに気を配り、良家の娘らしく礼儀正しく。常にセスナは気を張っていた、特に柊也の前では緊張で強張ってしまう程に。
「今日は、何も粗相はなかっただろうな」
「はい、兄さま。大丈夫です」
「そうか、ならいい」
たったこれだけの会話でも、声が上攣ってしまう。
セスナは車の助手席に乗り込み、背もたれにはもたれずに背筋を伸ばして座った。運転席に納まった柊也がキーを捻ると、途端にエンジンが低い唸りをあげる。
ゆっくりと車が動き出した。柊也の運転は丁寧で、振動はほとんど感じない。セスナを乗せていようが何だろうが遠慮の欠片もなく突っ走る、和馬の自転車の後ろとは訳が違う。もっとも柊也のこの高級車と、和馬の自転車を比べる方が無理なことなのだが。
柊也は口数が多い方ではなく、セスナも緊張しているのを差っ引いても無口な性質なので、こうして二人きりでいても交わす言葉はほとんどない。セスナは、窓の外を流れる街並みを眺めた。この頃は日が長くて、夕方の街はまだ薄明るい。
冬は終ったのだなと、セスナは思った。
もう春なのだ。
「今日、偶然に青蘭女子大学の理事長に会った。お前のことをよろしくと頼んでおいたからな」
赤信号で止まった時、いきなり耳に飛び込んで来たこの柊也の言葉の意味がわからずに、セスナは緩慢に首を巡らせた。ゆっくりと振り向き、兄の端整な横顔を見る。その横顔がセスナの方に向けられることはなく、柊也は前を真っ直ぐに見据えたままで信号が変わると同時に車を再びスタートさせた。
「あの、兄さま。青蘭女子大って……」
「何だ、知らぬ訳はあるまい?」
「あ、はい。勿論、存じております」
青蘭女子大学と言えば日本人なら誰でも知っているだろうというほどに有名な、日本屈指のお嬢様学校だ。セスナは柊也の先ほどの言葉を頭の中で反芻してみた、青蘭女子大学の理事長にお前のことをよろしくと……。
「あ、あの、兄さま。私は、大学は明条大を受験しようと……」
「明条大も悪くはないが、お前は女なのだから青蘭女子の方が良いだろう。理事長に頼んだとは言っても試験はあるからな、受験の準備は怠らぬように」
「……」
明条大学もかなりの名門校ではあるが、一般家庭の子女が通う学校なのだ。それに対して青蘭女子大学は、上流家庭の令嬢ばかりが通う学校として有名だ。
高校に進学する際、柊也はセスナの好きな学校に行けば良いと言ってくれた。けれど大学は違う、最終学歴である大学名は一生つきまとうものだ。
つまりそれは、これから先の飛鳥井セスナという人間の価値を左右する。青蘭女子大学を卒業したとなれば、それだけでセスナは所謂 『お嬢様』 ということになる。
はいと、セスナは答えた。
明条大は和馬の志望校で、セスナも当然の如く同じ大学に進むつもりでいた。だけどセスナは、はいと答えた。そう答えるしかなかった。
運命の歯車がギリギリと音を立てて、和馬との間を隔てて行くような気がしてセスナは唇を噛んだ。いや、まだそんな風にそう決めつける必要はないだろう。大学など違っても、それがそのまま和馬と引き裂かれるという訳ではない。
車がまた信号で止まった、窓からは街を行くたくさんの人々が見えた。スーツ姿や、どこかの学校の制服らしきものを着た人も少しはいるが、今日は休日だったからかカジュアルな恰好をしている人が多い。
水色の地に蝶が描かれた艶やかな着物に山吹色の帯をしめているセスナは、急に息苦しさを感じた。華道を習い始めて、もう五年。着物には慣れたつもりでいたのにどうしようもなく苦しくなってしまって、夕暮れの風景から目をそらした。




