19 なんだか遠い
美雨が家に戻ると、ゆるく巻いた髪を後ろで一つに結んだ母・栄が掃除機を手におかえりと迎えてくれた。いつもはおしゃれなスーツに身を包んでいることの多い栄だが、今は柔らかそうなオフホワイトのセーターに細身のジーンズ姿で、まだ二十代と言われても信じてしまいそうな美魔女ぶりだ。
美雨のような大きな娘がいるようにはとても見えない若々しい栄は子供服のデザイナーで、夫である草一郎と共に『polka dots』という子供服ブランドを経営をしている。雑誌などでもよく紹介される『polka dots』は、レースやリボンをふんだんに使った乙女チックなデザインが売りの人気ブランドなのだ。
「お母さん、今日はお休みなの?」
両親の仕事は、とてつもなく忙しい。急成長を続けている会社をさらに発展させるために日夜、骨身を惜しまず働いている。休みらしい休みなどほとんどなく、両親と一緒に食事を取ったのが最後はいつだったか美雨はすぐには思い出せない程だ。
だから、母が休日に家にいるなんてとても珍しいことなのだ。美雨が図書館に出かけた時には母は確かにいなかった。というか、ここ数日は家に帰って来ていない。本店の五階にある事務所兼アトリエに泊り込んでいたのに、どうして今は掃除なんてしているのか。
「デザイン、煮詰まってるんだ?」
「うっ……」
娘に哀れむような目で見られ、掃除機を手にしたまま栄が固まった。
元々、『polka dots』は、可愛い一人娘の美雨に着せたい服がコンセプトで立ち上げられたブランドだ。その美雨がすっかり成長してしまい子供服なんて着なくなった今では、デザイナーである栄のイメージは枯渇気味だったりする。
「確か今は、秋冬物だよね?」
まだ春になったばかりだが、栄がデザインしているのは秋冬物だ。しかも、今年のではなくて来年の新作なのだった。小さなブランドで生産数が少ないから一年先くらいで済んでいるが、これが大きなブランドであったら二年も三年も先を見越してデザインしなければならないらしい。
「掃除なんて現実逃避してないで、店に戻ったら?」
愛娘のごもっともな言葉に、栄の頬がピクピクと引きつる。美雨とお茶しようと、人気のマロンパイを並んで買って来てあることなど言える雰囲気ではない。
しかし、いくら生産数が少ないとはいえこのままでは新作が店頭に並ばなくなるという事態になりかねない状況なのは本当であり、確かに掃除なんてしている場合ではないのだった。
「冷たいわね、美雨」
涙目で恨めしそうに睨む母に軽く肩をすくめて美雨は、その横を素通りして階段を登った。二階の突き当たりにある美雨の部屋は、栄の趣味で白とピンクが基調の乙女チックな内装になっている。ベッドの上からレースがひらひらと縫いつけられているハート型のクッションを取り、それを抱えて美雨は絨毯の上にずるずると座り込んだ。
図書館に持って行った布バックの中身は返却して、代わりの本は借りて来なかったからぺたんこだ。何か小説を借りようと思っていたのに、どうしてか選べなかった。
「……」
窓際の机の上には、写真立てが置いてある。一年のキャンプの時に撮ったその写真には、美雨とあゆみと澪、それに阿久津の笑顔が写っている。撮ってくれたのは、あゆみの彼氏である清太郎だ。背の高い阿久津の頭の天辺が少しだけフレームから切れていた。
一体、どうしたんだろうと思う。
絨毯の上に座り込んだまま机の上の写真を見上げながら、美雨は美雨がわからなかった。
阿久津を好きだと思う、確かに胸が締めつけられるように好きだと思う。なのにどうして浮かんで来るのは薄茶色の髪を持つ、幼馴染の顔なのだろう。ほんの少し話をしただけで、どうしてこんなに鼓動が速くなっているのだろう。
美雨は、ブンブンと頭を左右に振った。そうすれば、頭の中から幼馴染を追い出せるかのように。
私が好きなのは阿久津先生、永沢君じゃない。
幼馴染だからだよね、だからちょっと気になってるだけだよね。
目を閉じれば、浮かんで来るのは阿久津の黒い髪だ。グレーの瞳ではなく、眼鏡の奥の優しい眼差しだ。
永沢君には彼女がいるんだから、姫宮さんとすっごい仲良さそうなんだから。
さっき会った希羅梨の、可愛らしいソプラノの声がまだ耳に残っていた。
『雪都君のとこに来たんだけど、居なかったんだぁ』
当たり前に家に行くんだ、なんて思ってしまった。彼女なのだから、それこそ当たり前だろうに。
きっとスーパーにいるよって、どうして教えてあげなかったんだろうかと美雨は膝を抱えた。意地悪な自分を嫌悪してしまいそうだ。
美雨は、ふうっと大きく息を吐いた。
中森と、雪都は呼んだ。子供の頃は美雨と呼び捨てていたのに、中森と苗字で呼んだ。
美雨だって雪都のことを子供の頃の呼び名であるゆき君ではなく、永沢君と呼んでいるのだからお互い様だ。というか、もう高校生なんだからそれが普通だろう。
そう、もう雪都も美雨も保育園に通っていた頃の子供ではない。高校三年生。恋をして当たり前な、そんな歳になった。
晴音ちゃんなら、お母さんの服が似合うだろうな。
あのピンクベージュの髪に、栄の乙女チックな少女服がすごく似合いそうだと美雨は思った。さすがに雪都の妹だけあって晴音は、ものすごく可愛かった。
晴音ちゃんがモデルしてくれたらお母さん、喜びそう。
だけど、そんなことを頼むなんて絶対に無理だと思う。幼馴染なのに、クラスメートなのに、美雨は雪都を近寄りがたい、なんだか遠い存在のように感じていた。




