1 春、四月
今より少し前の、2000年代あたりのお話になります。
ガラケーだったり、自転車の二人乗りをしていたりしますが、それで普通だった時代のお話です。
クラス分けが張り出されている掲示板の前で、美雨は呆然としていた。誰もが自分のクラスを確認するとすぐに始業式に向うために立ち去って行くのに、その場に足が凍りついてしまったように動けなかったのだ。
美雨の足元で、風に攫われて来た桜の花びらがカサカサと遊んでいる。その様子を見開いた瞳に映しながら美雨は、ただうつむいていた。
もう春だというのに、日差しはこんなに暖かいのに、なぜか震える。
寒くて、どうしようもなくて、美雨は自分の肩を抱いた。
公立進学コースを選んだ以上、私立文系コースのあゆみや就職コースの澪と離れるのはわかっていた。仲のいい友達と違うクラスになるのは勿論うれしくない、うれしくなんてないけれど進む道が違うのだから仕方ないとまだ諦められる。
だれど、どうして……?
美雨は、ぐっと奥歯を噛んだ。
公立進学クラスはいつも学年主任の阿久津が担任すると聞いたから、美雨は必死で勉強してこの難しいコースを選んだのだ。美雨の通うこの沢浪北高校はまあまあの進学校で、三年生のクラス分けは二年生までとは違い、進学の希望によって振り分けられる。
国公立大学への進学を希望する者を集めた、A組。
私立の文系への進学を希望する、B組とC組。
私立の理系を目差す、D組。
専門学校への進学、もしくは就職希望のE組。
このうちB組とC組、そしてE組は希望すれば誰でも無条件に入れる。D組は理系が得意な者しか入れないが、そもそも理系が苦手な者は希望しないので問題はない。
問題があるとしたら、それはA組だろう。
国公立大学を目差すくらいだから、それぞれの学年で成績上位者ばかりが集まることとなる。言い換えれば、成績が上位でなければ入れないクラスなのだ。
A組に入れるかどうかは二年生の二学期の成績で決まると聞いて、美雨は猛勉強をした。一年、二年と担任だった阿久津の担任クラスに入るため、それこそ必死で頑張ったのだ。
もし阿久津が公立進学クラスを受け持つという噂を耳にしなければ、美雨はあゆみと同じ私立文系コースを選んでいただろう。私立の文系は希望者が多いため二クラスに分かれるが、それでもあゆみと同じクラスになる確率は二分の一だ。他のコースを選べば最初から違うクラス確定なのだから、この差は大きい。
美雨は、自分がいささか内向的な性格だと自覚している。小柄でおとなしそうに見える容姿のおかげか人当たりは悪くないのだが、だけど知らない人に自分から声をかけて新しい友達を作るなんて出来そうにない。あゆみと仲良くなったのだって、明るくて物怖じしないあゆみの方から声をかけてくれたおかげだし、あゆみの次に仲のいい澪もあゆみが引っ張って来てくれたからこそ友達になれたのだ。
一年生の時は、あゆみと澪と美雨の三人でいつも一緒にいた。二年生になって澪とはクラスが分かれたが、あゆみとは一緒だった。そして何より、美雨が尊敬してやまない阿久津が二年連続で担任だったのは幸運だったとしか言いようがない。
そう、最初は尊敬の念だった。
まず美雨が惹かれたのは、阿久津の穏やかな話し方だった。低いのだけれど低すぎない、よく通る声で阿久津は静かに話す。
次に惹かれたのは、優しい眼差しだった。生徒一人一人に向ける阿久津の眼鏡の奥の瞳はまるで凪いだ海のようで美雨は憧れた、どうしようもなく憧れた。
美雨は知らなかった、憧れはいつかその姿を変えることがあるということを。
ホームルームで教卓の向こうに立っている阿久津を見つめ続けることが、美雨の中にこんなやっかいな感情を育てることになるということを。
好きなのだと、気づいたのはいつだったろうか。阿久津を見るたび、その声を聞くたびに胸をしめつけるものの正体に美雨が気づいたのはいつだっただろうか。
美雨は、告白するつもりはなかった。教師である阿久津を困らせるつもりは、全くなかったのだ。
だけど、せめて卒業までは見つめていたい。卒業して、美雨が阿久津の教え子ではなくなった時にどうするかは、まだ決めていないけれど。
二年生までは進路の希望も適正も無視でランダムに分けられた生徒を、担当教科は関係なしでこれまたランダムに担任を割り当てるのだが、三年生は違う。私立文系クラスを担任するのは決まって国語か英語の教師だし、理系クラスを担当するのは必ず理系の教師だ。専門学校・就職クラスを受け持つのは、音楽の教師だったり美術の教師だったり、時には体育教師だったりと様々だが、国公立進学クラスを担任するのは学年主任、つまり美雨の代では阿久津なのだ。
どうして……阿久津先生は、どうしたんだろう?
掲示板に張り出されたクラス分けの紙には、どこを探しても阿久津の名前はなかった。転勤という言葉が頭を過ぎったが、そんな筈ないと美雨はすぐに打ち消した。
この地域では、公立高校の教師の移動は新聞に載るのだ。美雨は春休み中、爆発しそうな心臓をなんとか宥めながら地元紙を確認した。沢浪北高校からも何人かの教師が転出になっていたが、その中に阿久津が入ってなかったのは確かだ。何度もしつこいくらいに見直したのだから、絶対に間違いない。
A組の担任は、来栖涼華。
美雨は教わったことないが、確か英語の先生だ。女らしい体つきで男子生徒にすこぶる人気がある女教師。
美雨は深い溜息をついてから、ようやく顔をあげた。いつまでもここで突っ立っている訳にはいかない。
美雨は、A組の欄を上から順に目で辿ってみた。
飛鳥井セスナ、阿倍和馬、市川博隆、国嶋伊佐美、時田崇、早坂真琴、姫宮希羅梨……・
この学校でも目立つ部類の、何かの時には必ず先頭に立っているような人たちばかりだった。この中で美雨が喋ったことがあるのは、二年生の時に同じクラスだった時田崇くらいなものだ。
美雨はもう一度、溜息をついた。
喋ったことはなくても、知っている名前ばかりだ。あんな目立つ人たちの中で自分はやっていけるのだろうかと、美雨はどうしても不安になる。高校生活最後の年を友達もいないクラスで過すのは寂しすぎる。
中森美雨の名は、名簿の真ん中より少し後ろにあった。何だかそこだけみすぼらしく感じるのは、美雨の被害妄想だろうけれど。
美雨はまた溜息をつくと、始業式が始まってしまうからもう行かなくてはと自分に言い聞かせて立ち去ろうとした。けれど、踵を返しかけた美雨の視界の端にひとつの名前が引っ掛かった。
中森美雨のひとつ前に永沢雪都という名前が記されている。記憶の隅に追いやっていたけれど、それはよく知っている名前だった。
ゆき君だ、同じクラスになったんだ。
永沢雪都は、美雨の幼馴染だと言える。少なくとも、小学校の一、二年の頃まではよく一緒に遊んだ。
へえ、ゆき君と同じクラスになるのなんて小学校以来だなあ。
最後に同じクラスだったのは、小学四年の時だったろうか?中学も高校もずっと同じ学校なのに、何故かそれ以来は同じクラスになったことはない。
ゆき君なんてもう呼んじゃ駄目だよね、永沢君て呼ばないと。
ゆき君なんて可愛い呼び名で呼んでいた幼かった雪都を思い出して、美雨はクスッと小さな笑いを漏らした。時折見かける今の雪都は背が高く、すっかり大人っぽくなっている。
永沢君、永沢君。
うっかりゆき君呼びしてしまわないように、美雨は声には出さずに何度も心の中で繰り返した。
永沢君、永沢君、永沢君……。
「おい、気分でも悪いのか?」
「えっ?」
いきなり背後から声をかけられて、美雨は思わず飛び上がった。振り向くと、日本人らしからぬ薄茶色の髪が目に飛び込んで来る。ぱっと見は黒く見えるけれど、よく見れば微妙にグレーがかっている瞳が美雨をしっかりと見据えていた。
まともに目が合ってしまい、美雨は慌てて顔を伏せた。今の今まで心の中で名前を連呼していた永沢雪都がそこに立っていたのだ。
「さっきからずっとそこにいるだろ、気分悪いか?保健室に行くか?」
確かに、小学校の低学年頃までは美雨と雪都はよく一緒に遊んでいた。お互いに両親が共働きだったために、物心つくかどうかという頃から同じ保育園に通っていたのだ。
家が近かったこともあり、二人はとても仲のいい幼馴染だったと言っていいだろう。だれど、男と女だったからなのか、いつの間にかあまり遊ばなくなった。
一緒に遊ばなくなると、口をきくこともなくなって来た。小学校五年生でクラスが分かれて以来、話をしたのなんてほんの数回で、高校に入ってからは皆無ではないだろうか。
「あの、えっと……」
「顔色も悪いな、貧血か?」
切れ長の目をすがめて、雪都は美雨の顔を覗き込んだ。
「違うの!」
美雨は違う違うと、両手を胸の前でひらひらと振って見せた。雪都が怪訝そうに眉根を寄せる。
「何でもないの、平気。えっと、私は元気だから」
それでも雪都が疑わしそうに美雨を見ているので、美雨は誤魔化すようにへへへと笑った。
「えっと、だからね、その……友達と違うクラスになっちゃったなぁって、ちょっと落ち込んでたの。それだけだから」
美雨が早口でそうまくし立てると、雪都は納得したのか曖昧に頷いた。
「もう始業式、始まっちゃうよね?早く行こ……えっと、永沢君」
それだけ言うと、美雨はもう雪都にはかまわずに走り出した。すでに時間はギリギリで、美雨の他にも何人かの生徒が始業式の行われる体育館目掛けて走っていた。