197 今の僕にできる事
エレベーターに乗り込んで風太郎は、四階のボタンを押した。すっと音もなくドアが閉まりかけた時、廊下の向こうの方から両手に紙袋をさげた女性が走って来るのが見えた。
『開』のボタンを押して待っていると、すみませんと頭をさげながら乗り込んで来る。見覚えのある人だった、幾度となく四階の廊下で見かけた。晴音と同じ小児病棟に入院している子供の、その母親ではないだろうか。
四階ですよねと訊くと案の定、その母親は頷いた。エレベーターの中が少し薄暗いせいだろうか、顔色がひどく青白く見えて風太郎はなんとなくその人の横顔を見ていた。
茶色のトレーナーにジーパンという、動きやすそうな服装をしている。最近の若い母親はお洒落だと聞くが、その人は化粧さえもしていないようだった。
そうか、化粧をしていないから顔色が悪く見えるんだな。
女性というものはみんな化粧をするものだと思っている風太郎は、勝手にそう納得すると扉の方に向き直った。
『フライング・グリーン』の本を持って来てと晴音に頼まれて、干してあった洗濯物を取り込みついでに永沢家に一旦戻り、そして洗いたてのパジャマと絵本を持ってまた病院に来たところだ。
チンという軽い音と共に上昇が止まり、開いたドアから風太郎はエレベーターを降りた。歩きだそうとした風太郎の耳に、ドサッという音が聞こえた。振り向くと先ほどの母親が、エレベーターを降りたところで両手に持っていた紙袋を取り落とし、しゃがみ込むところだった。
「大丈夫ですか!」
慌てて風太郎が駆け寄ると、母親は真っ青な顔をあげて大丈夫ですと弱々しい声で答えた。ちっとも大丈夫そうでないその様子に看護婦さんを呼んで来ますと風太郎は立ち上った、だけど本当に大丈夫ですからと言われて走り出そうとした足を止める。
「ちょっと眩暈がしただけですから、本当に大丈夫です」
「でも……」
母親はすっと立ち上がると、すみませんと頭をさげた。そして、見るからに重そうな二つの紙袋をまた持ち上げようとした。
「お手伝いします」
とんでもないですと遠慮するのを半ば無理矢理に引き受けると、思った通りにずっしりと重い。ちゃぽんと音がしたのは、何か飲み物だろうか?あとは着替えやタオルなんかをこれでもかと詰め込んであるようだ。
「病室はどこですか?」
「すみません」
「なんてことないですよ」
母親が示した病室は、すぐそこだった。入口から入ると正面にナースステーションがあって、その廊下を挟んで向かいにある部屋。
そこが特に症状の重い患者のための部屋だということは、入ってすぐにわかった。集中治療室は晴音が入っている部屋とは全く違う、背筋がぞくりと痺れるようなひんやりと冷たい空気が満ちている。
何の装置なのだろうか、重々しい機械がいくつも置いてあった。ピッピッと甲高く響く電子音は、そのまま命の音なのだ。
「……」
風太郎が入口で立ちつくしていると、母親はベッドに近づいて酸素マスクをつけられた子供に何か話しかけた。小さな声だったので風太郎には聞こえなかったが、ただいまとでも言ったのだろうか。
「ありがとうございました、助かりました」
そのあたりに置いておいてくださいと言われて風太郎は、重い二つの紙袋をロッカーに立てかけるようにして床の上に置いた。このロッカーは、晴音の部屋のと同じものだ。入院患者の私物を入れるためにどの部屋にも設置されている。
「あの……僕、荷物をロッカーにしまいましょうか?」
「え?」
「座ってらしてください、僕が片づけておきますので!」
そう言って紙袋の前でしゃがんだ風太郎を近寄って来た母親がやんわりと止めた。それくらいは大丈夫ですからと微笑まれて、風太郎は返す言葉がすぐには出てこない。
「では、他に何かお手伝いすることはないですか?僕に何か、えっと」
「本当に親切な方ですね、ありがとう。でも、大丈夫ですから」
ピッピッと、同じリズムで電子音が響く。
この音が止まった時、きっとあの子は……。
風太郎は、深く頭をさげてから逃げるようにその場を立ち去った。晴音が元気なので忘れていたけれど、病院とはこういうところなのだ。
今にも命の炎を消そうとしているあの子の傍で、あの母親は何日寝ていないのだろうか。せめて何か手伝いたいと思うのに、何も出来ないのが悔しい。
風太郎は健康で、よく動く手と足を持っているのに。なのに何も出来ない、やっぱりお前は役立たずだと誰かに言われた気がした。
晴音の病室の前に着いても風太郎は、すぐには中に入らなかった。自分がひどい顔つきをしている自覚があった、大きく息をすって気持ちを静める。
「あ、山辺さんですよね?」
何度目かの深呼吸を終えた時、名前を呼ばれた風太郎は声のした方を向いた。背の高い看護婦が足早に歩いて来るところだった。
「永沢婦長が、急患が入ったから来るのが少し遅くなると晴音ちゃんに伝えて欲しいそうです」
気の弱そうな笑顔で十和子からの伝言を伝える看護婦の胸には、『藤田』と書かれたネームプレートがついていた。男ながらに153センチしか身長のない風太郎は、ぽかんと口をあけて若い看護婦を見上げてしまった。
「あの……山辺さん、ですよね?」
「あ、はい!山辺です、山辺風太郎です」
「じゃあ、晴音ちゃんに伝えてくださいね」
お願いしますと頭をさげると藤田いずみは、くるりと踵を返した。病院の廊下だから走りはしないものの、精一杯の早足で戻るのは尊敬する婦長の手伝いをするためだ。人と相対する時には生まれ持った引っ込み思案の性格が出てしまうけれど、仕事となればそんなことは言ってられない。
急患で運び込まれた患者は、バイクで転倒した若い大柄な男だ。左足からの出血がひどかった、骨が砕けているかもしれない。すぐにレントゲンを撮る筈だ。他にも看護婦はいるけれど、力仕事となれば背の高いいずみの出番となる。
「あの、すみません!」
颯爽と歩いて行くいずみの背中に、気づくと風太郎は声をかけていた。足を止めて振り向いたいずみに、あの、そのと口ごもる。
「あの、えっと、その……あの、看護師って大変ですか?」
あまりに唐突な質問にいずみは、思わず目を見開いた。けれど、こういった質問を受けるのは初めてではない。いつだったか、看護師を志す少女に同じことを訊かれたことがある。
いずみは、体ごと向き直って風太郎と相対した。風太郎は今、あの時の少女と同じ顔をしている。何かを決めようとしている時の強い瞳だ。
「はい、大変です」
「どうして看護師になろうと思われたのですか?」
「それは、話すと長くなってしまいます」
「あ、そうですよね。すみません」
「でも、簡単に言うと病気や怪我で苦しんでいる人のお手伝いを少しでもしたいと思ったからでしょうか」
「え?」
「何の取り柄のない私でも誰かの役に立つことが出来るかもしれないと思って、看護の道を選びました」
これで答えになっていますかと問われて、風太郎は深く深く頭をさげた。いずみの足音が遠く聞こえなくなるまでそうしていた、何故か涙があふれて顔をあげられなかった。
何の取り柄のない私でも誰かの役に立つことが出来るかもしれない。
いずみの言葉が楔となって、風太郎の胸に突き刺さっていた。