195 元気満タン
大部屋に空きがなかったので晴音は、とりあえず二人部屋に入ることになった。二人部屋とは言ってももう一つのベッドは空いているので、実質は一人部屋と同じだ。
それをいいことに一昨日は母の十和子が、昨夜は父の秋雪がこっそりと晴音の病室に泊まった。
本当なら患者の容体がよほど重篤な場合でない限りは家族と言えども面会は面会時間内だけで、夜の八時を過ぎると帰らなければならない。だけど晴音の場合は両親ともにこの病院に勤めているので、そこは大目に見てもらえた。小児科の看護婦たちの中にもICUの永沢夫妻を尊敬している者は多いのだ。
「もうおうちに帰りたい」
「んー、そうだなぁ。もうちょっとだけ病院にお泊りしようか」
「やだ、帰りたい」
「まだお胸の音が苦しそうだからね、もうちょっとだけ頑張ろう」
「ぶー!」
愛娘の胸に聴診器をあてながら秋雪は苦笑いした。ぶーなんて言われても、秋雪にしてみれば可愛いだけだ。思わず抱きしめたら力いっぱい嫌がられたけれど。
「お父さんはもうお仕事に戻らなくちゃならないけど、晴音は一人で大丈夫かな?」
「大丈夫だよ、もうすぐふうちゃん来てくれるし」
家政夫の風太郎は、面会時間の許す限りつきっきりで晴音の看病をしてくれている。家政婦なんて他に雇ったことがないから比べようがないが、風太郎はとてもよくやってくれていると秋雪は思う。
感謝、という言葉がすんなりと浮かぶほどに。
「じゃあ、朝ごはんを食べているんだよ。八時になったら山辺くんが来てくれると思うから」
「はーい」
さっき看護婦が持って来てくれた朝食のトレイをベッドサイドのテレビやら冷蔵庫やらがひとまとめにされている棚の上に置くと、晴音はパジャマのボタンを止めながらずりずりとベッドの上を移動した。自分で棚の引き出しからスプーンを出して、いただきますと両手を合わせる。
どうでもいいけどいくら朝食とはいえ、おかゆに海苔と玉子焼き、それに見るからに薄そうな味噌汁だけというのはどうなんだろう。しかも、プラスチックの飾りも何もない白い皿にのっているせいか、いかにも不味そうに見える。ちゃんと栄養は計算されている筈だが、これで病人は力がつくのだろうか。せめてあの皿だけでも変えたら、もうちょっと美味しそうに見えないだろうか。
病院食なんていくらでも目にすることがあるのに、娘が入院して初めて目がいくとは俺も医者失格だななんて思いながら秋雪は立ち上がった。そろそろ朝のミーティングが始まる時間だ、いつまでも晴音を見ていたいのは山々だが持ち場に戻らなくてはならない。
「晴音、またお昼休みに来るからね」
「はーい」
秋雪は後ろ髪を引かれる思いなのに、愛娘の方は実に素っ気ない。テレビをつけて、チャンネルを子供番組に合わせるともう振り向いてさえくれないのだ。
秋雪がガックリと肩を落として、仕方ないから仕事に戻るかと開けようとしたドアがいきなりドンドンと音を立てた。外から誰かがノックしているのだ、それも少々、いやかなり乱暴に。
そして、ドアのすぐ前に立っていた秋雪が答える間もなくガラリと開く。
立っていたのは、二メートルを超す大男だ。いや、身長が高いだけならいい。秋雪は医者として、これまでありとあらゆる患者を診てきた。だから、いくら大男でもそれだけでは秋雪は驚かない。
秋雪を驚かせたのは男の身長ではなく、その格好だった。ハアハアと肩で息をしている男は、赤のギンガムチェックの地に茶色いクマの顔がアップリケされた何ともファンシーなエプロンをつけていた。それに、あの頭は何なのだろう?変な形にがっちりと固め、先に鈴をつけているのはどういうファンションセンスなのか。
「すみません、永沢晴音はこの部屋でしょうか?」
白衣を着ている秋雪を医者だと思ったのだろう、いや実際に医者なのだが、秋雪が晴音の父親であることにはまるで気づいていない様子で大男、八木健は戸口に立っている秋雪の横から病室の中を覗き込んだ。
「……タケちゃん?」
「晴音!」
大丈夫かお前と言いつつ健は、秋雪を押しのけるように部屋に入った。晴音はスプーンを握ったまま、もぐもぐと口を動かしながら大きな目で健を見上げた。
「タケちゃん、どうしてここにいるの?」
「どうしてじゃねえだろ、お前の兄ちゃんからお前が入院したって電話が来た時には心臓止まったぞ」
「心臓って、止まったら死んじゃうんじゃないの?」
「それくらいびっくりしたってことだろうが。で、大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、もう元気になった」
「そうか」
大きな手を晴音の額に押し当てて熱を測っている健に秋雪は目を丸くしていた。
秋雪は、これまで晴音を保育園に送って行ったり迎えに行ったりしたことがない。雪都が世話になっていた頃には十和子と交代で送り迎えしていたからちょくちょく行っていたのだが、晴音が通い始めてからは雪都のおかげでその必要がなかった。
年に一度あるお遊戯会くらいは行きたいと思いつつ、毎年ねらったように仕事が入る。だから秋雪は、晴音の大好きな園長の噂話しはやたらと聞いてはいるものの、会ったのはこれが初めてなのだ。
失礼ですがと話しかけると、健は振り向いた。普通に振り向いただけなのに、妙な迫力を感じるのは気のせいだろうか。
「おひさま保育園の園長さんでしょうか?私、晴音の父親ですが」
いつも娘がお世話になっていますと秋雪が頭を下げると、健は一瞬だけ驚いた顔をしたものの、すぐにぴしっと立ち上がって頭をさげた。
「ああ、そうか。晴音のご両親は、この病院にお勤めでしたね」
「はい、そうなんです」
「で、晴音の具合は?」
「扁桃腺がかなり腫れましたが、もう問題ありません」
「そうですか、それはよかった」
強面の顔が少し緩んだ、ような気がする。どうやら笑っているらしい健を秋雪は、失礼なのも忘れてしげしげと眺めた。
晴音が通っているおひさま保育園からこの病院までは確かに徒歩圏内だ、歩いて来れる距離ではあるけれどこの園長はまさか雪都からの電話を受けてすぐにここまで駆けつけて来たのだろうか?保育園の園長ならこのクマさんエプロンも頷けるし、髪に鈴をつけているのも子供ウケを狙っての事なら理解できる。だけど保育園の中ならいざ知らず、大の男が外を走り回れる格好ではないだろう。それなのにエプロンを取るのも忘れてこの園長は、まさか?
「あの……もしかして、走って来てくださったのですか?」
「あ、はい。晴音が入院したなんて聞いたから驚いてしまって、つい」
何も言わずに出て来てしまったのでと、健はすぐに帰って行った。エプロンは外した方がいいですよと秋雪が言う間もなく、バタバタとせわしない足音が遠ざかって行く。
そう言えば、まだ面会時間にはなっていない筈だ。普通なら早く来た見舞客は時間になるまでナースステーションの前で待たされるのだが、規則に厳しい看護婦たちもあの園長の剣幕に度肝を抜かれてうっかり通してしまったのだろうか。
そう考えるとおかしくて、秋雪はつい笑ってしまった。肩を震わせて笑っている父に晴音は、不思議そうに首を傾げた。
「お父さん、どうして笑ってるの?」
「いや、何でもない。何でもないけど、いい園長さんだな」
「いい園長さん?」
「晴音のことを心配して走って来てくれたんだから、いい園長さんだ。きっと晴音のことが大好きなんだろうね」
「……大好き?」
「ああ、大好きだから来てくれたんだよ」
それでなくても大きな目をこれでもかと大きく大きく見開いて晴音は、大好き、大好きと小さな声で何度も繰り返した。
「晴音?」
「タケちゃんは、晴音を大好きなの?本当に、ほんとーに大好きなの?」
「え?……いや、そうだと思うけど」
そっかぁーと晴音は、それはもう甘くとろけそうに笑った。例えるなら、マシュマロみたいな笑顔とでも言えばいいだろうか。
「は、はるね……」
可愛過ぎるっ!と、抱きしめようとした秋雪の腕を見事に避けておいてから、晴音はぴょんとベッドから立ち上がってうーんと両手を伸ばした。晴音ぇーと父が泣いていることなど、娘は知ったこっちゃないのだ。
夏からずっと晴音の心の底でわだかまっていたものがあることを秋雪は知らない。晴音はおひさま保育園を卒園して健と離れるのが悲しかったこともあるが、それよりも健の方が晴音と離れるのを何とも思ってなさそうなことに傷ついていたのだ。
だけど、健の愛を感じた途端に晴音は急浮上していた。のびのびと両手を伸ばして、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
「晴音、元気そうだな……」
「お父さん、早くお仕事行けば?」
「晴音ぇー」
女の子は……いや、年齢に関係なく女というものは皆こういうところがある。その切り替えが速さは、男には到底真似できないだろう。
女は、男の愛を食べて魅惑的に輝く。
それはもう、眩しいほどにきらきらと。