194 全ては白い霧の中
どんなことがあろうとも、朝は必ずやって来る。
嬉しい夜も悲しい夜も、明けない夜はない。
カーテン越しの淡い光の中でセスナは、ゆっくりと起き上がった。立とうとして、体が重いことに気づく。寝汗をかいたらしく、背中に張り付いているパジャマが冷たい。学校を休んでしまおうかと考えかけて、セスナはゆっくりと頭を横に振った。
和馬に会いたい、だから学校は休まない。
昨日の日曜日を何をして過ごしたのか、セスナはあまり覚えていない。そしてその前の日の、土曜日にあったこともまるで霧の向こうの出来事のようにぼんやりとぼやけている。
嬉しいことがあった筈だ、確か。
その嬉しいことを喜び勇んで和馬に報告に行った筈だ、確か。
セスナは、大判のバスタオルを持って部屋を出た。シャワーを浴びたら、このどうしようもなくぼやけてしまった頭がすっきりするかもしれない。少なくとも目は覚めるだろう。
自室から出て、廊下を挟んだ真正面にある洗面所の扉をセスナは開けた。中に入ると鍵をかけてから鏡の前でパジャマを脱ぐ。そして下着も取って裸になると、浴室の引き戸を引いた。
義兄の柊也は一階の風呂を使うし、使用人たちは使用人専用の浴室がある。だから二階のこの浴室は、セスナ専用だと言っていい。
置いてあるボディソープもセスナ専用のシトラスの香がするものだ。蛇口をひねって温度があがるのを待ってからセスナは、手のひらにボディソープをたっぷりと取って、それをそのまま体に塗った。お湯を浴びながら盛大に泡立てると、シトラスの爽やかな香がふわりとセスナを包んだ。
夢だったんじゃないかと、今でも疑っている。
夢だったならいいのにと、必死で願っている。
だけど和馬は確かに別れようと言った、セスナが何を言っても聞いてくれなかった。
和馬が別れを切り出した理由を考えると、どうしても嫌だと駄々をこねることは出来なかった。俺はお前に必要ねえよなと言った、和馬に反論する言葉をセスナは持っていない。
セスナの夢をずっと応援してくれたのは怜士で、和馬ではない。この役割だけは、和馬では駄目だったのだ。
セスナに背を向けて、すたすたと去って行った和馬に泣いて縋ることは出来なかった。夕暮れの公園に一人取り残されてセスナは、ただ呆然としてしまって涙さえ出なかった。
どうやって家に帰ったのかは、覚えていない。あれが土曜日で今日が月曜日ということは、間に日曜があった筈なのだけれどそれもよく覚えていない。
全ては、霧の中で白くぼやけている。
いくら勢いよくお湯を浴びても、霧は晴れてくれない。
学校に行く支度をしなくてはと、セスナは思った。体はやはりだるいけれど、絶対に休まない。和馬に会いたい、ただ会いたい。
頭から浴びているお湯が、セスナの体から泡を洗い流してくれる。
セスナはシャワーの中で突っ立っていた。ザーっと、水音ばかりが響く。
いつかは和馬と別れる日が来るという覚悟をセスナはとっくにしていた。義兄が和馬を認めてくれることはないだろうし、セスナは柊也に逆らうことなんて出来やしないと思いこんでいたのだ。
だけど夢を見つけて、追いかけ始めた今になって和馬のことも諦める必要はないのではないかと思うようになってた。大切な夢と大切な人、どちらも失いたくない。
やはりあれは、夢だったんじゃないだろうか?
学校に行けば和馬はいつも通り、おはようと言ってくれるんじゃないだろうか。
「……うっ」
泣く資格なんて、自分にはないとセスナは思う。怜士の気持ちを知っていて利用していた、怜士が優しいのをいいことにセスナは……。
この別れは、必然なのかもしれない。
セスナはもう、怜士の手を取るべきなのだから。
和馬は、まさに絶妙のタイミングで別れを切り出してくれた。セスナからはきっと言えなかった、どう考えても言えやしなかった。
『なんか俺って、お前に必要ねえよな』
和馬の言葉が胸に痛い。
必要だ、セスナは和馬を今でもこんなにも求めている。だけど、それはもう言えない。怜士の何もかも諦めたような、寂しげな笑顔が頭を掠める。
明日からは友達、和馬はそう言った。友達だと言ってくれた。だから今日だって学校に行けば、いつも通りおはようと言ってくれる筈だ。
それでいい、それで十分だと思う。
もう二度とぎこちない口づけを交わすことがないとしても。
「……」
泣く資格なんてない、これっぽっちもない。セスナの頬を伝う暖かいものはシャワーの湯だ、涙なんかじゃ絶対にない。
「和馬……」
もう少しで夢に手が届きそうだ、進む道が見えている。義兄にはまだ話していないけれど、たとえ反対されようともセスナは貫く決心でいる。
その結果、もしもこの家を出ることになったとしても怜士が何とかしてくれるんじゃないか、そんな甘えた考えが頭の隅にあることをセスナは否定できない。
今、セスナが一番必要としているのは和馬ではなく、確かに怜士なのだ。
怜士が差し出してくれる手がなければ、セスナは一歩も動けなかった。
そして、きっとこれからも。
何の見返りも求めずに溢れるほどの優しさをくれる怜士に、セスナは応えなくてはならない。今はまだ怜士に恋をしていないけれど、いつかは心の底から愛しいと思うようになるかもしれない。
だから今、このタイミングで和馬を別れるのは必然なのだろう。夢と恋人を秤にかけていた訳ではないけれど、ここ最近のセスナは確かに夢にしか目を向けていなかった。
俺に何でも言えよと、和馬はいつも言っていた。だけどセスナは、何一つとして和馬に打ち明けることはしなかった。
傷つけてしまった、あの優しい人を。
和馬だって怜士と同じようにセスナを支えてくれようとしていたのに、だけど家柄なんてどうしようもない理由でセスナは怜士を頼った。もしも和馬が華道の家元の息子だったら……いや、そんなことは考えても仕方ない。
別れようと言った時、和馬も苦しかっただろう。いや、やり場のない苦しみが和馬に別れを切り出させたのかもしれない。
「……すまぬ、和馬、すまぬ」
大切な人を傷つけてしまった、セスナを支えようとしてくれた人を苦しめてしまった。
これは罰なのだろう、だったら何も言わずにこの別れを受け入れなければならない。
学校に行ったら和馬におはようと言おう、友達の挨拶をしよう。
セスナは、蛇口をひねってシャワーを止めた。そしてしっかりと顔をあげ、鏡に映った自分に向かって一つ大きく頷いた。