193 いつか思い出と笑えるだろうか
いつもより三十分も早く家を出たから、正門から三階にある教室に行くまでの間に誰にも会わなかった。もう少しすれば文化祭の準備が始まるだろうが、今はまだどの部も始業前に集まるようなことはしていないらしい。吹奏楽部だけは朝練をしているようで、音合わせをしているのが遠くに聞こえる。
コンクールでもあるのかなと思いながら美雨は、ゆっくりと廊下を歩いていた。楽器ごとにばらばらに音を出していたのが一旦止まって、やがて演奏が始まった。ヴィヴァルディだったろうか、聞き覚えのあるメロディが朝の空間に広がる。
三年A組の教室まで来ると美雨は、ドアの前で足を止めてすうっと息を吸い込んだ。こんな時間だ、誰も来ていないのはわかっている。
ゆっくりと扉を横に滑らせると、窓から差し込む光でほのかに明るい教室がまるでまだ眠っているように見えた。そっと足を踏み入れ、後手で静かに扉を閉める。
なんとなく空気を乱したくなくて、なるべくゆっくりと歩いた。前から二番目の自分の机に鞄を置き、そして座る。斜め前の席に彼の背中はなかったけれど、美雨は雪都の席を見つめた。二学期に入ったらまた席替えがあるだろうと思っていたのに、担任の来栖涼華は本当に気まぐれらしくてそのままなのだ。
この席になった時、どきどきした。
教卓の先生を見ればどうしても幼馴染の彼が目に映る、それがどうしようもなくどきどきした。
今にして思えば、あの頃にはすでに好きだったのだろう。
美雨は自分でも気づかないうちに、雪都に恋心をつのらせていたのだろう。
昨日、憧れの人が両親に挨拶をしに来た。『polka dots』の本店近くにある喫茶店で待ち合わせて阿久津優介は、苦虫をまとめて百匹くらい潰したような顔をした草一郎とたおやかに微笑んでいた栄にきっちりと頭をさげ、お嬢さんを必ず幸せにしますと言ってくれた。
ずっと憧れていた夢みたいな時間だった、だけど美雨の胸は少しも高鳴らなかった。
こんな所までご足労いただいて申し訳ないと草一郎が言うと、お忙しいのにお時間をいただいてと阿久津が頭をさげる。お世辞にも話しが弾んだとは言えないが、終始おだやかな雰囲気だった。
優介は、前日のプロポーズの時に美雨に話したのと同じ話を草一郎と栄にも話した。母の病状が思わしくないということ、一人息子である自分の結婚が母の最期の望みなのだということ。
せめて婚約者の顔だけでも死ぬ前に見せてやりたいから、結婚は急がないけれど婚約は早くしたいということ。出来たら来月の頭あたりに美雨を一度、田舎に連れて行きたいということなどを言葉を飾らず率直に説明した。
どうか婚約を認めてくださいと真正面から言われて草一郎は、怒っているような困っているような泣き出してしまいそうな、何とも微妙な表情をした。だけど隣から栄に肘で小突かれて、娘をよろしくお願いしますと潔く頭をさげた。
そうして、一時間にも満たない顔見せの後、美雨は阿久津の婚約者になった。阿久津の田舎に美雨が同行するのは、中間考査とその後にある文化祭が終わってからということで決まった。
細かいことはまた連絡するからと言って阿久津は帰って行った。すっかり脱力して十歳くらい一気に歳とってしまったような草一郎は、しばらく喫茶店の座り心地のいい椅子にめり込んでいたけれど、打ち合わせがあったんじゃなかった?と栄に言われて、あたふたと事務所に戻って行った。
美雨も何だか体に力が入らなくて、椅子が柔らかいソファータイプなのをいいことに父と同様にめり込むように座っていた。そんな娘に栄は笑いながら、「久々に二人でお買いものに行こうか」と誘った。
「とても優しそうな方ね、それにカッコいいし」
「お母さんて、本当にカッコいい人が好きだよね」
「そんなの当たり前じゃない、男は見た目よ」
軽く冗談を飛ばしながら栄は、美雨に新しい服を何枚も買ってくれた。スカートは、短い物ではなくてロング丈を。これからの季節にちょうどいい薄手のセーターは、上品なデザインの淡い色のものを何枚か。
きちんとしていて、だけど可愛らしく見えるそれらの服は、夫となる人の母親と初めて会う娘のためのものだ。靴も欲しいわね、寒いといけないからカーディガンもいるかしらと栄は、次から次へと店を見て回る。そんな栄の優しさに美雨の心は段々と痛くなってきた。ご免なさいと、どうしてかわからないけれど謝りたくなった。
何度、心に訊ねてみても答えは同じだ。阿久津優介という名の、あの人を好きだと思う。本当に大好きだと思う。
だけど心が痛い、ずきずきと疼く。幸せな筈なのに、ずっと夢見ていたことが現実になったのに、だけど痛い、どうしようもなく。
洒落たイタリアンレストランで早目の夕食を取って、仕事があるという母と別れて家に帰った。虎二郎も仕事でいないから、また一人きりの家だ。
一応は参考書を広げてみたけれど何もする気になれなくて、結局はお風呂に入ってすぐにベッドに入ってしまった。だけどなかなか寝付けなくて、美雨は何度も何度も寝返りばかり繰り返した。
大学に行きたいなら行けばいいし、教師になりたいならなればいいと阿久津は言う。
婚約さえしてくれれば、あとは美雨の好きにしていいと。
どうして私なんだろうと、やはり思ってしまう。自慢ではないけれど美雨は、自分がそんなに美人だとは思っていない。
飛びぬけて頭がいい訳でもないし、何かに秀でている訳でもない。ごく一般的な、平均点な女の子だと思う。
阿久津ならいくらでも相手がいるだろうに、どうして美雨なのか。
まだ高校生の、しかも阿久津にとっては教え子である美雨を選ばなくてもいいだろうにと、どうしてもそう思ってしまう。
生徒と婚約なんてして、学校で問題にならないのだろうか……もっとも婚約したとは言っても、美雨と阿久津はつき合っているとさえ言えないような関係だ。何だろう、結婚てこんな風に決まってしまうものなのだろうか?
ゆっくりとワインが熟成するように想いを育んだりとか、ある日突然ふって湧いたような一目惚れとか、恋にも色々なパターンはあるだろうけれど、まずは告白からはじまって、運よく想いが通じたらおつき合いが始まって、そしていつか二人でたどり着くのが結婚というものなのだと美雨は思っていた。結婚して欲しいと阿久津は言ってくれたけれど、美雨と結婚したいとは言わなかった。微妙な違いだけど、それが小さな棘になって美雨の心に引っかかっていた。
阿久津先生って、私が好きなのかな……。
あまりに予想外の展開に、肝心のことを忘れていた。阿久津の気持ちだ。彼は、美雨が好きだから選んでくれたのだろうか。もしかしたら、結婚しようと思い立った時にたまたま、つい最近告白してきた美雨を思い出したに過ぎないのではないだろうか。
そんなことを考えていると、ちっとも眠りは訪れてくれなかった。朝刊を配る新聞配達のバイクの排気音が聞こえてくるまでベッドの中でごろごろと寝返りばかりを打っていたが、どうしても眠れないと美雨は起き上った。
パジャマの上にエプロンをつけて、やたらと時間をかけてお弁当を作った。そして続けて、これまた時間をたっぷりかけて朝食を作り、食欲はなかったけれどこれもやたらと時間をかけて食べた。
食べ終わった頃になってようやくいつも美雨が起きる時間になった。それから制服に着替えて髪を結って、身支度を終えたらいつもより三十分も早い。余った三十分を何をして過ごすかと考えるのさえもう面倒で、もういいやとばかりに家を出た。早過ぎることは、わかっていたのに。
誰もいない教室で一人、美雨はじっと斜め前の席を見つめていた。もう何も考えられなかった、ただ心が痛かった。
阿久津を好きだと思うのに、選んでもらえてうれしいと確かに思うのに。
「……スキ」
小さな小さな呟きは、美雨の耳にさえかろうじて届くかどうか。
「好き、好きなの」
だけどそこに、美雨の告白を聞いてくれる誰かはいない。
今、美雨の胸を押し潰してしまいそうなこの痛みさえ、いつか思い出と笑えるだろうか。阿久津と結婚して、幸せな日々の中でいつか高校時代の淡い恋を思い出して、若かったななんて思うのだろうか。