192 汲めど尽きない泉のように
母親が子供に注ぐ愛情は、汲めど尽きない泉のようなものだと何かの書物で読んだことがある。それはつれ合いを早くに亡くし、女手一つで育てあげた息子ならば尚更のことだろう。
中間テスト前だから忙しいんだと優介が言えば、病気の母はただ頑張りなさいとだけ答えた。伯父は今週も帰って来ないのかと怒ったけれど、母は無理して体を壊さないようにねと心配までしてくれる。
三十路男の侘しい一人暮らしの部屋で、テーブル代わりのこたつの天板に乗せたテスト問題の下書きをチェックしながら優介は、いつの間にか口の端があがっていたことに気づいた。壁時計で時間を確認してみたら、もう午後五時を過ぎている。
週末はいつも母に付き添っている伯父はもう帰っただろうか、それなら母に電話してみようか。
結婚が決まったと言ったら母は、果たしてどれほど喜ぶだろう?
優介は、シャーペンを置いて立ち上がった。そして、テレビの脇にあるコンセントを使って充電していた携帯電話を取る。母が入院している病院はそれほど大きくない病院で、いつ電話してもたいして待たされることなく母に繋いでくれる。
東京の有名な病院に転院しないかと言ってみたことがあるが、母は昔からかかっているこの病院がいいのだと言ってきかなかった。こっちに来てくれたら優介としては助かるのだけれど、歳老いて病を得た母に生まれ故郷を捨てろとは言えなかった。
コール三回で出た看護婦らしい女に阿久津ですと名乗れば、それだけでちょっと待ってくださいと言われた。受話器から流れるオルゴールのメロディを聞いていれば、やはりたいして待つこともなく電話口に母が出た。
「母さん、具合はどう?」
もう随分楽になったよと言う母の声は、元気な頃に比べると格段に勢いがない。大きな声で淀みなく喋りに喋って契約をもぎ取る辣腕保険屋だった母なのに、やはり放射線治療は苦しいらしい。歩くのも辛くなったそうで最近ではトイレに行くにも車椅子を使っているというのは、ここ半月ほど帰っていない優介を叱ったついでに叔父が教えてくれたことだ。
「母さん、驚かないで聞いて欲しいんだ。あのね、結婚したいと思う娘がいる。今度、紹介するから」
電話の向こうから、母が息を飲んだ気配がありありと伝わって来た。そして、そうかいと呟くような言葉に続いて聞こえて来たのは、小さな小さな嗚咽だ。阿久津さん、どうしましたと声をかけているのはさっき電話を取り次いでくれた看護婦だろうか。
「母さん、慌てないでよ。結婚するのは、少し先になる。実は彼女、教え子なんだ。今、三年生。高校を卒業するまで待たなくちゃならないんだ、もし彼女が進学したいと望むのなら大学を卒業するまででも待つつもりでいる。歳はかなり離れているけれど、いい娘なんだ。素直で大人しくて、とても優しい娘だよ。きっと母さんも気に入ると思う」
そうかい、そうかいと母は涙声で繰り返した。それ以外には言葉が出ないようだった。
「だからさ、孫の顔を見たいなら長生きしないとね。頑張ってくれよ、母さん」
来週は中間テストがあるから無理だけど、近いうちに必ず彼女を連れて行くからと約束して電話を切った。
母は、今夜は幸せな気持ちで眠れるだろうか。
再入院してからは、不安で眠れない夜が続いているらしい。軽い睡眠薬を処方していますというのは、母の主治医から聞いた。
母は、優介には大丈夫だよとしか言わない。
離れて暮らすひとり息子に心配をかけまいとする母の気持ちが優介にはかえって重かった。
母親が子供に注ぐ愛情は、汲めど尽きない泉のようなものらしい。病床で日に日に弱って行く母なのに、優介には今でも溢れんばかりの愛をくれる。
子供の頃から当たり前に享受してきたその愛が尽きる時は、それはすなわち母の命の火が消える時なのだろう。
優介は携帯電話をまた充電器に戻すと、コーヒーでも淹れるかとキッチンに向かった。やかんに水を満たしながら優介は、六畳二間に小さなキッチンしかないこの部屋で彼女と暮らすのは無理だなと思った。
結婚するなら、もっと広い部屋を探さなくてはならない。この際だ、マンションでも買おうか。これまで真面目に働いて来た優介には、マンションの頭金にするくらいの貯えはある。白くてきれいなマンションを買って、彼女と新しい生活を始めようか。
まさか、あんなにあっさりとOKしてくれるとは思っていなかった。なんと言っても優介は教師で彼女は教え子、まだ十八歳なのだ。
結婚のことなんて考えたこともないだろう、だからきっと断られるだろうと思いながらももしかしてと言ってみただけだった。だけど優介が返事は待つから考えてみてと言う前に美雨は、はいと答えたのだ。先生と結婚しますと、そうはっきりと言った。
彼……永沢雪都のことは、もう済んだことなのだろうか?先生と結婚しますと言った時に、彼女が泣きそうな顔をしていたのが優介はひどく気になっていた。はっきりさせておいた方がいいだろうか、母があんなに喜んでいるのに今更なかったことにしてくれなんて言われたら困る。
彼女ではなく、彼と話をするべきかもしれない。
多分、彼女が好意を寄せているだろう、あの男と。
「永沢雪都、か」
優介はやかんをコンロに乗せて、火をつけた。やかんの底についていた水滴が、じゅっと蒸発する音が聞こえた。