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school days  作者: まりり
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190 幸せの音


 トントンとノックする音が聞こえ、返事をするよりも早く開いたドアから覗いた顔に栄は、思わず笑みを浮かべた。残念なことに愛娘の美雨は両親の仕事に興味がないようで、こんな風に仕事場に来ることはめったにないことなのだ。


 「あら、珍しい。どうしたの?」

 「えっと……えっとね、お買い物しに近くまで来たからお母さん、いるかなっと思って」


 へへへと照れ笑いしながら部屋に入って来た美雨は、窓際のデザインデスクに寄って来て栄の手元を覗き込んだ。消しゴムやらペンやらを脇にどけてから栄は、線画だけでまだ色を塗っていないデザイン画を美雨によく見えるように向きを変えてやった。


 「ウエディングドレスのデザイン画?」

 「これは、お色直し用のカラードレス。今、何色がいいかなって考えていたところ」

 「水色がいいよ、きっと可愛い」

 「そう?」


 栄が水彩色鉛筆でささっと手早く水色に着色すると、ほら可愛いでしょうと美雨が得意気に笑った。色鉛筆を置いて栄は、描きあがったばかりのデザイン画を持ち上げ、傍らに立つ美雨にそれをあててみた。似合う?と訊く娘に、まあまあねなんて答える。


 「虎二郎くんは?」

 「家で寝てるんじゃないかな、疲れてたみたいだから」

 「若いのに軟弱ね」

 「何を言ってるのよ、入社していきなり一か月も休みなしでこき使った癖に」


 虎二郎おじちゃんが可哀想と唇を尖らせて美雨は、すいっと栄から離れると応接セットのソファーにちょこんと座った。買い物に来たと言う割に、持っているのは小さなバックが一つきりだ。


 「さっきまで、飛鳥井さんがいらしてたのよ」

 「飛鳥井さんが?」

 「飛鳥井さん、デザイナーになりたいんですって。高校を卒業したら、うちに来てもらうことになったわ」

 「え……でも、飛鳥井さんは青蘭女子に行くって聞いたよ?」

 「大学は、行かないって言ってたわよ」

 「進路変更ってこと?」

 「そうなんじゃない?」


 書類棚の上に置いてあるポットから急須にお湯を入れて、盆の上に伏せて置いてあった細身のマグカップをふたつ取ってから栄は美雨が座っているソファーに移動した。ガラステーブルの上にマグカップを並べてふたつ置き、急須から若草色の緑茶を注ぐ。


 「美雨が来たって言ったら、お父さんが悔しがるわね。ついさっき、業者さんと打ち合わせって出かけて行ったのよ」

 「最近、忙し過ぎない?お父さんの顔、忘れちゃいそうだよ」

 「記憶力悪いわね、受験生なのに」

 「お母さんの顔も忘れかけてました」

 「こんな美人を忘れちゃ駄目でしょ」

 「もう、自分で美人とか言う?」


 はいどうぞとマグカップを置いてやると美雨は、ありがとうと言った。そしてすぐに手を伸ばし、熱い緑茶に口をつける。


 「おいしい」

 「やっぱり、日本人は緑茶よね」

 「お母さん、紅茶も好きじゃない」

 「それは、それ」

 「本当にお母さんて勝手よね、好きなことを思う存分やってるし。お父さんに愛想尽かされない?」

 「大丈夫よ、お父さんはお母さんにぞっこんだもの」

 「ぞっこんて、今時言わない」

 「そう?」


 澄ましてそんな風に答えると、美雨はこれだからと笑った。そしてまた、緑茶を一口飲む。


 「ね、お母さん。お母さんは、どうしてお父さんと結婚したの?」

 「え、何よ急に」

 「だって、学生結婚だったんでしょう?しかも、お父さんて年下だし。そんなに早く結婚しなくても、これからもっといい人が現れるかもとか思わなかった?」

 「思った」

 「思ったんだ」

 「そりゃあね、思ったわよ。だってお父さん、カッコよかったけど年下だし。やっぱり何だか頼りない気がしてね、大丈夫かなーって不安だった」

 「じゃあ、どうして結婚したの?」

 「カッコよかったから」

 「それだけ?」


 美雨が声が裏返ったから、栄は思わず笑ってしまった。男は見た目よーなんてつけ足せば美雨の目がさらに大きくなるのだから、可笑しくて堪らない。


 「お父さんね、言ってくれたの。絶対に後悔させないって。お母さんを世界一のデザイナーにしてやるってね、そんなすごいことを言ったのよ」

 「世界一のデザイナー?」

 「そう、世界一!言うことが大きいでしょ、はったりでも大したものだと思ったの」

 「はったりって……お母さん、お父さんの言うこと信じてなかったんだ」

 「あら、信じてるわよ?だから、結婚したんじゃない」

 「嘘っぽーい」


 美雨は、マグカップを両手で包みこむように持ったままで何か考え込むようにうつむいていた。みーう、と声をかけると、「ん?」と顔をあげる。


 「ね、何かあった?」

 「んー、ちょっとね」

 「ちょっとか」

 「うん、ちょっと」


 美雨の不安気に揺れている瞳を見て、この娘は好きな人がいるんだなと栄はふと思った。栄自身にも覚えがある、誰かを本当に好きになってしまうと迷うものだ。心が大揺れに揺れて自分ではどうしようもなくなるからとりあえず身近な人の体験談を聞いてみたくなる、そういうものだ。


 「お母さんは、お父さんと結婚して幸せだと思う?」

 「当たり前じゃない!お父さん、カッコいいもの」

 「だから、カッコいいのはもうわかったから」

 「カッコいいお父さんと結婚して、美雨が生まれて、好きな仕事が思いっきり出来て。お母さんほど幸せな人は、そうそういないと思うわよ」

 「そっか……うん、そうだよね。お母さんはお父さんと結婚して、幸せだよね」


 もう十八歳か、そう思うと栄の脳裏には赤ん坊だった頃の美雨の可愛い笑顔が浮かんだ。ミルクの匂いのする柔らかなぬくもりを抱きしめる時のとろけそうな幸福感は、今でもありありと思い出すことが出来る。小さな背中に押し当てた手のひらに美雨の心臓の音がトクン、トクンと伝わった。ああ、生きてるんだなぁなんて当たり前のことがひどく幸せだった。本当に、泣きたくなるくらいに。


 あの小さかった美雨が成長して今、恋に揺れている。

 何だか不思議な気がする、人間てすごいななんて思う。


 「好きな人と結婚したら、幸せになれるよね」

 「そうね、多分ね」

 「多分なの?」

 「この世の中に絶対なんてないもの、残念なことだけどね。でも、好きな人と結婚したら幸せになれる確率はかなり高いと思うわよ」


 「お母さん」と美雨が呼ぶ声に、栄は「なぁに」と答えた。赤ちゃんの美雨に話しかけるような、甘い口調だ。

 いつかこの娘も子供を産むだろう。そして栄のように、幸せの音を抱きしめるだろう。いつか、多分、きっと。


 「阿久津先生、覚えてるよね?」

 「美雨の憧れの先生ね、もちろん覚えているわよ」

 「私ね、私……私、阿久津先生に結婚して欲しいって言われたの」

 「え?」

 「もちろん、高校を卒業してからだって。なんなら、大学を卒業するまで待ってもいいって。だけど婚約だけは早くしたいって、そう言われたの」

 「美雨、それは……」

 「私、阿久津先生が好きなの。ずっと憧れてたの、大好きなの。だからね、だから……」

 「美雨……」

 「はいって、言ったの。結婚しますって、そう答えたの」


 栄は、持っていたマグカップを置いた。ガラステーブルにマグカップの底があたった音が、カシャンと無機質に響いた。



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