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school days  作者: まりり
19/306

18 cafe marron


 ドアにつけたカウベルがカランと鳴った音に振り向くと、豪奢な長い髪の女が入って来るのが見えた。慧一はさっとネクタイの歪みを直して、営業用ではない笑顔を浮かべた。


 「いらっしゃい、涼華さん。今、起きたんですか?もうお昼ですよ」

 「んー、昨日呑みすぎちゃってねぇ」


 涼華は冴えない顔色でそう言うと、窓際のいつもの指定席に座った。慧一は冷たい水をグラスに注いで、それを涼華の前にトンと置く。髪を邪魔臭そうに手でかきあげると涼華は、水をぐっと一気に飲み干した。


 「二日酔い?」

 「そう、頭痛い」

 「薬、持って来ましょうか?」

 「薬よりコーヒー、うんと濃いの」

 「はいはい」


 慧一はカウンターに戻ると、コーヒーを淹れ始めた。袖口が汚れそうなので、少しだけ捲り上げる。

 慧一は、真っ白なアイロンのきいたシャツに蝶ネクタイ、それに黒のズボンをはいて黒のエプロンをつけている。今時こんな恰好をしたウェイターなんてかえって珍しいだろうが、このスタイルがこの店の主人である手塚(まさき)のこだわりなのだ。

 手塚は生まれつき目の不自由な男だが、そのおかげで鋭くなった嗅覚を頼りに絶品のコーヒーを淹れるバリスタなのだ。慧一は手塚のコーヒーに惚れ込み、押しかけ弟子になった。大学にはちゃんと行くこと、親の了承を得ること、という手塚の出した二つの条件をクリアして、慧一はこの店でこうやってコーヒーを淹れている。


 慧一の家は、田之倉流という華道の家元だ。慧一はそこの長男だが、家を継ぐのは弟の怜士であって自分ではないとわかっている。というのも、慧一には田之倉の血が流れていないのだ。

 母の美里は父とは再婚で、慧一は美里と前夫との間に出来た連れ子だ。母が父と再婚した時に慧一はまだ二歳であったそうで、普通なら田之倉の父を本当の父だと信じて育っても無理のない年齢であったと思うけれど、口さがない親戚たちのおかげで慧一は、自分が田之倉の人間ではないということを物心つくかつかないかという頃から嫌というほど知っていた。

 バリスタになりたいと言うと、母はすぐにやってみなと答えた。好きなことを好きなようにやればいいと、そう答えた。その顔に、気を使わせてすまないと書いてあるようで、慧一は苦く笑った。


 慧一は、幼い頃から慣れ親しんで来た華道が好きだった。

 特に田之倉流の花は、とても美しいと思っている。


 丁寧に淹れたコーヒーを、温めておいたカップに注ぐ。それを銀のトレーに乗せて慧一は、涼華が座っている窓際の席まで運んだ。


 「お待たせです」


 そう言いながらカップを置くと、涼華は「うー」と答えた。頭が相当痛いらしい。


 「何か食べた方がいいですよ、トーストでもお持ちしましょうか」


 もうモーニングは終了している時間だが、もちろん涼華は特別だ。けれど涼華はいらないと、吐き気を堪えるように口を押さえたくぐもった声で答えた。


 「そんなに呑んだんですか?」


 慧一は銀のトレーを持ったまま、近くの椅子を引き寄せて座った。今は涼華の他には客がいないから、少しくらいはかまわないだろう。


 「量はたいしたことなかったんだけどね、紹興酒のあとにカクテルは駄目だわ」

 「ああ、それは悪酔いしそうだ」

 「甘いカクテルがおいしかったのよ」


 この店、『cafe marron』は、マンションの一階の店舗部分を間借りしている。涼華は、この真上のマンションの住人なのだ。

 ちなみにこの店のオーナー、手塚も同じマンションに住んでいる。店が暇な時にはこうやって慧一に任せて部屋に戻っているが、混んで来たり、手塚が淹れたコーヒーでなければ駄目という通の客が来たら電話で呼ぶのだ。


 「やっぱり、受験生を受け持つのは大変ですか?」


 涼華は、沢浪北高校という公立高校で教師をしている。今年は担任を持たないでよさそうだから気楽と言っていたのに、学年主任が家の事情で担任を持てないと言い出したので、急にお鉢が回って来たらしい。しかも、学校一の進学クラスとか。責任重大とぼやいていたのはつい先週のことだ。


 「受験までは一年近くあるし、うちのクラスは優等生ないい子ちゃんが多いから今はまだそうでもないわよ」


 慧一が淹れたコーヒーをゆっくりと、香りを楽しみながら涼華は飲む。慧一は涼華のこんなところが好きなのだ、独特の雰囲気を持っている女性だと思う。


 「セスナちゃんは、頑張ってますか?」

 「飛鳥井は頑張り屋だね、あれなら何とか明条大行けるんじゃないかな」


 五年ほど前から田之倉に華道を習いに来ている飛鳥井家のセスナは、涼華が教師を勤める沢浪北高校に通っている。三年生になって、涼華の受け持ちクラスになったらしい。


 「ま、彼氏と同じ大学に行くために必死で頑張ってるよ」


 そう、これは涼華から聞いて初めて知ったことだが、セスナにはつき合っている男がいるらしいのだ。弟の怜士がセスナに惚れていると知っているだけに、慧一は苦笑いを浮かべるしかない。セスナに恋人がいることを、あの図体はでかいが慧一にとっては可愛いばかりの弟は多分知らないだろう。


 「あー、美味しい!慧一のコーヒー飲んだらちょっとすっきりしてきた。やっぱりトースト貰おうかな、サラダ付きね」

 「はいはい」

 「コーヒーもおかわり」


 涼華が差し出すカップを受け取って、慧一は立ち上がった。

 涼華は、慧一の淹れたコーヒーを本当に美味しそうに飲んでくれる。だからという訳ではないけれど、だけどやっぱりだから好きなんだと慧一は思う。



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