188 せつなくなんかない
茜に染まった街、セスナの背中が遠ざかって行く。
追いかけようと思った、だけど足が動かなかった。
横断歩道を渡ったセスナの姿は、角を曲がってすぐに見えなくなった。
もう、今から走っても捕まえられないだろう。
怜士はハアッと短く息を吐いてから、路肩に寄せて停車している車に戻った。出してくれと言えば、運転手がいいんですかと振り向く。いいから出せと、自分でも驚いてしまうほど強い声が出た。
八当たりだ、完璧に。
すまんとすぐに謝ったら、怜士が子供の頃から田之倉家に勤めている初老の運転手は柔らかく微笑んだ。
後部シートにのめり込むように座ると、怜士は誰はばかることなく大きな溜息をついた。セスナがどこに行ったかなんて、そんなことはわかっている。あの男のところだ、それ以外ない。
信号から十メートルほど手前の、実に邪魔なところに止まっている田之倉家のリムジンを後続の車が次々と追い抜いて行く。後続車が途切れるのを待って、運転手はウィンカーを出すと静かにアクセルを踏んだ。エンジンの微かな振動が、怜士の疲れた体に心地よかった。
窓の外を流れ出した街並みをぼんやりと眺めながら怜士は、たった今するりと怜士の手をすり抜けて行ったセスナを想った。
ただ、セスナだけを想った。
セスナが幸せになること、それが怜士の望みだ。セスナに夢があるなら、その手伝いをする。どんな協力も惜しまない。
それが、惚れるということだと怜士は思う。
たとえセスナが怜士の気持ちに応えてくれることはなくてもかまわない。いや、出来たら振り向いて欲しいけれど、とりあえずはいい。とりあえず今は、今日みたいに怜士を頼ってくれることが何よりも嬉しい。
最近ではセスナは、怜士が一緒なら自由に外出させてもらえるようになったらしい。行先さえ訊かれなくなったというのは今朝、迎えに行った時にセスナが嬉しそうに言っていたことだ。母の里美も頻繁に会っている怜士とセスナの仲をすっかり勘違いしているようで、もう今から縁談を申し込んでおいたらどうかなどと言っている。
別にいいと思う、勘違いされていた方が何かと便利なのだからいいじゃないかと怜士は思う。
セスナの夢が叶うまでは、優しい彼氏を演じてやる。
「怜士さん、お帰りになりますか?」
「そうだな……」
夕暮れの街をゆったりと流している運転手の白髪混じりの頭を見ながら怜士は、本当のことを知っているのはこの運転手だけだなと思ってすぐに考え直した。
いや、兄の慧一がわかってくれている。それに、友人の大西敦だっているではないか。
「長橋町に行ってくれ」
「大西様ですね?」
「ああ」
またこんなしけた面を出したら敦は、いとこの裕理と二人がかりでそれはそれは楽しそうに散々いじめてくれるだろう。自分にMの気はないと怜士は確信しているが、それでもいじめられに行こうか。
今日、高校を卒業したら憧れの会社に就職することがほぼ内定して、セスナはまぶしいほどの笑顔だった。『polka dots』に入社したら、それだけでデザイナーになるというセスナの夢が叶う訳ではないだろうけれど、確かにこれは最初の一歩だ。
よかったなと、もう冷たくなってしまった隣のシートに向かって怜士は小さく呟いた。
やがて車は夕日町と隣町を繋ぐ橋を渡り、運転手がハンドルを大きく右に切った。小さな小さな怜士の呟きは運転手の耳に届いてしまったけれど、聞こえなかったことにしてくれたようだった。