187 キミとキセキ
車を降りて、セスナは駆け出した。怜士の声が何か叫んでいるのが聞こえたけれど、構わず走った。
青信号が点滅している横断歩道に飛び出し、まだ半分も渡っていないところで赤になったけれどそのまま突っ切る。パン屋の角を曲がって、小学校の校庭沿いの道を真っ直ぐに進み、次の三叉路は左の道だ。
あと200メートル、あと150メートル。段々と和馬が近づいて来る、いや近づいているのはセスナの方なのだけど。
もうすぐだ、もうすぐ和馬に会える。
そして夢を、セスナの夢を聞いてもらえる。
小さな児童公園の角を右に曲がると、前方に阿部医院の看板が見える。辺りは既に暮れなずみ、空の低いところで雲が茜の色に染まっていた。
長い影を従えて、セスナは走った。
真っ直ぐに、和馬を目指して。
今日、セスナは約束の時間ちょうどに迎えに来た怜士と共に『polka dots』の本店に向った。セスナの手にはしっかりと、夏休み中かかってようやく縫いあげた楓いドレスと、ウエディングドレスのデザインをたくさん描き綴ったスケッチブックが抱えられていた。今週末はずっと事務所にいるからいつでも来てという言葉通り、セスナの憧れの人である中森栄は、朝っぱらからやって来たセスナと怜士を笑顔で招き入れてくれた。
すごい勢いでびっくりしちゃったわと、あとで栄に言われてセスナは真っ赤になって恥じ入ることとなるのだが、その時はもう頭の中が真っ白になってしまって何を言ったのかは自分では覚えていない。一緒にいた怜士が言うにはちゃんと喋ってたぞとのことだが、だけどセスナにはその数分間の記憶がないのだ。
ウエディングドレスのデザイナーになりたい、『polka dots』が子供服メーカーであることは重々承知しているし、お角違いなのはわかっているのだけれどここで修行させて欲しい、弟子にしてくださいと、あとですごい勢いだったと笑われた通りにそれはすごい勢いで一気にまくし立てて頭を下げたセスナに栄は、あらちょうど良かったなんて答えたのだ。
今度、『polka dots』では、ウエディングドレスやお色直し用のカラードレス、そしてもちろん花婿用のタキシードなども扱うブライダル部門を新設したこと。その準備のためにここのところ死ぬほど忙しかったことなどを栄は簡単に説明してくれた。しばらくは今の子供服のスタッフが兼任と言う形でやっていくが、順次ブライダル専門のスタッフを入れていくつもりだということも説明してくれた。そして、来春卒業ならちょうどいいわね、すぐに来てもらえるかしらなんて言ったのだ。
「あの……しかし私は、何の経験もなくて……」
「あら、経験を積みにうちに来るのでしょう?」
「それはそうなのだが……いや、そうなのですが、しかし……」
「健吾くんみたいに、うちでアルバイトしながら服飾専門学校に通うって手もあるわ。楓ちゃんなんて、大学に通いながらうちに来てたのよ。まあ、それはおいおい考えましょう。おうちの方にも相談しなくてはならないでしょうし」
にこにこと笑っている栄に気圧されて、セスナは助けを求めるように怜士を振り仰いだ。怜士は、笑っていた。そして、ぐっと拳を突き出して見せた。
やったなと、聞こえた気がした。
力強いその拳が、セスナに力を与えた。
お願いしますと頭をさげたら、嬉しいわと手を取られた。そして気がつくとセスナは、栄と両手をがっしりと握り合ってピョンピョンと飛び跳ねていた。
本当に嬉しいわ、一緒に頑張りましょうねと十八歳の娘がいるなんてとても信じられない少女のような笑顔で栄は言った。セスナを引きずりながらキャーキャーとはしゃぐ栄に何事だと、ちょうど部屋に入って来た草一郎が呆れていた。飛鳥井さんがうちに来てくださるんですって、しかもブライダル部門のデザイナー志望ですってと、草一郎に説明している栄の言葉でようやくセスナにもこの事態が飲み込めて来た。
それからは本当に、雲の上を歩いているような気分だった。持参したセスナのドレスを見てもらい、スケッチブックを見てもらった。栄だけが見てくれるのだろうとセスナは思っていたのだけれど、栄はセスナの作品を一目見るなりすぐにスタッフを呼んで意見を求めたのだ。
エリに、パターンはよく出来ていると褒められた。これは、手伝ってくれた博隆の手柄だろう。縫製は、目も当てられんと酷評された。健吾に要努力と言われ、楓がガンバと笑った。そして肝心のデザインは、栄にここをこういう風にしたらいいんじゃないと言われてセスナは、目から鱗がぼろぼろと落ちるのを感じた。
スケッチブックのデザイン画の方も、一枚一枚に的確なアドバイスをくれた。服というものは見た目だけでなく、動きやすさや素材の持ち味まで考えなくてはならない。それに、商品なのだから商業的なことも考慮に入れる必要がある。
セスナは、全てのアドバイスをありがたく胸にしまって、己の未熟さを噛みしめた。そして、これから一緒に勉強していきましょうと栄に言われ、お願しますと深く深く頭をさげた。
今日のランチは社長のおごりと楓が叫んで、逃げようとした草一郎をエリと健吾が捕まえた。俺はいいと遠慮する怜士の腕は栄が掴んで、全員で近くのファミレスに行った。
楽しかった、今まで生きてきた中で一番楽しいとセスナは思った。
沢浪北高校で過ごした心安い時間も楽しかったけれど、だけど憧れの人と大好きな服の話をしながら食べたお昼はこの上なく美味しかった。
「あのね、ブライダル部門の責任者は主人の弟くんがやってくれることになったの。入社していきなりお休みなしで働かせちゃったから今日は休んでもらってるんだけど、また今度、飛鳥井さんに紹介するわね。虎二郎くん、見た目は恐いけど優しいから大丈夫よ」
「見た目は、恐いんですか?」
「そう、すっごい大男なの!でも大丈夫、優しいから。お料理がとっても上手でね、お菓子なんかも作っちゃうの」
「はあ……」
にこにこと笑いながらそんなことを話してくれる栄に、セスナは曖昧に頷いた。あの細身の草一郎の弟にそんな大男は想像しにくいが、優しいという点なら容易に想像できる。ここの人たちはみんな優しい、そして暖かい。
「飛鳥井さん、もし良かったら卒業するまでアルバイトに来てもらえたら嬉しいわ。時間が許せば、ですけど」
大学はどうするのと訊かれて、行きませんと答えた。確かに大学に通いながら『polka dots』でアルバイトするという手もある、だけどセスナはそうはしたくなかった。
通うなら、専門学校だ。専門学校で服飾の勉強をするというのならアリだと思う。だけど、大学は違う。特に青蘭のようなお嬢さん学校に通うのは、セスナの夢に少しもプラスにならない。
「そんなに急いで答えを出さなくてもいいのよ。よく考えて、おうちの方とも相談してね」
もしアルバイト出来そうなら連絡してねと、渡されたメモには携帯の番号が書かれていた。草一郎の携帯の番号ならすでに教えてもらってあるが、これは栄の携帯の番号らしい。
バイトするなら縫製班に入れ、一から叩き込んでやると健吾に言われてセスナは頷いた。出来る事ならそうしたい、だけど義兄はアルバイトなんて許してくれるだろうか?
ランチが済むと、早速働けと健吾に縫製室に連れて行かれた。言われるままに布を運んだり整理をしたりの雑用をこなすうちに時間は瞬く間に過ぎ、ずっと部屋の隅で待っていてくれた怜士がそろそろ帰ろうと言いだした時には夕刻だった。お世話になりましたと挨拶をして、田之倉家の車で送ってもらう間もセスナの夢見心地は続いていた。
これを奇跡と呼ばずに何が奇跡だと言うのだろう?
子供服メーカーでウエディングドレスのデザイナーになる修行をしたいなんて、誰が考えても理に合わないセスナの希望がこんなにもすんなりと通ってしまった。まさか、『polka dots』がブライダル部門に進出するなんて、本当に夢なのではないかと思う。
そしてセスナは、高校を卒業したらその一員となるのだ。
奇跡だ、たとえ神様が何を言ってもこれは絶対に奇跡!
車が沢浪町を過ぎ、夕日町に差し掛かった時にセスナは思わず止めてと叫んでいた。
「すまぬ、怜士。私は、ここで降りる」
そこは、進路を決めたら真っ先に報告すると約束した人が住んでいる街だ。和馬に話さなければ、いや聞いて欲しい。そう思うとセスナは、怜士の返事も聞かずに赤信号で止まった車から飛び出していた。
「おい、セスナ!」
怜士の声は聞こえた、だけどセスナはそのまま走った。
横断歩道を渡り、パン屋の角を曲がって、小学校の校庭沿いの道を真っ直ぐに進む。三叉路は左、児童公園の角は右だ。
走りに走って辿り着いた阿部医院の看板の前でセスナは、息が苦しくてしばらく動けなかった。ハアハアと乱れる呼吸をなんとか静めてから、病院とは棟続きになっている自宅の方の門扉に近づく。
この呼び鈴を鳴らすのは、これで二度目だ。前の時は、『polka dots』の服と衝撃の出会いをしたその日だった。何かあったら私は和馬に会いに来るのだな、そんなことを思いながらセスナは呼び鈴を押した。
だけど、インターホンは沈黙したままで、ドアが開くことはなかった。
「……留守か?」
もう一度、今度は先ほどよりゆっくりと押してみたけれど、ピンポーンと間延びしたチャイムが家の中で響いているのが確かに聞こえたのに、やはり誰も答えなかった。