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school days  作者: まりり
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185 最高のハッピーエンド


 昼を少し過ぎた頃、電話が鳴った。電話を取った虎二郎は美雨に、それが憧れの人からの電話であることを告げた。

 虎二郎から受話器を受け取り、はいと答えた。中森くん?と、耳に流れ込んできた穏やかな声は美雨がずっと好きだった人のものに違いないのに、だけど美雨を少しもときめかせなかった。


 突然で申し訳ないのだけど今から会えないだろうかと言われて、「はい」と答えた。今は沢浪駅にいるからと言われても、やはり「はい」と答えた。

 どこか話のできる静かな喫茶店を知らないかいと訊かれたので、『黒猫』の場所を教えた。『黒猫』はケーキ屋であって喫茶店ではないけれど、奥にテーブルを置いてあってお茶も出してくれるし、とにかく静かだ。


 それに、あまり馴染みのない店は嫌な気がした。

 あゆみたちといつも行っている『黒猫』がいい、根拠もなくそう思った。


 じゃあその店で待っているから、そんなに慌てなくていいから来てもらえるかなと言われ、それにも「はい」と答えてから受話器を置いた。

 電話を切ってからようやく、何の用なのだろうという疑問が美雨の中でじわじわとわいてきた。上の空で対応していたけれどよく考えてみれば、いやよく考えるまでもなくこれは天と地がひっくり返るような事態ではないだろうか。


 電話の前に突っ立ったまま動かない美雨を少し離れたところから虎二郎が黙って見ていたが、虎二郎がそこにいることさえ美雨は気付かないでいた。


 何だろう、何の用だろうといくら考えてもわからない。


 受験のことだろうか、だけど阿久津は美雨の担任ではない。教師が一生徒を休日に呼び出すなんて、そんなの聞いたことがない。

 待っていると言った、慌てなくていいから来て欲しいと言った。だったら、行かなくてはならない。美雨の憧れの人が美雨を待っているのだから。


 ゆっくりと美雨は動きだした。そのまま玄関に向かおうとして、財布も何も持たずに行く訳にはいかないことに気づく。二階の自分の部屋で財布とハンカチと携帯を小さなバックに入れて出かける支度をしながらも、美雨の頭の中にはやはり何の用なのだろうと疑問符が溢れていた。

 虎二郎に行って来ますと言うのも忘れて美雨は家を出た。今日は雲ひとつない晴天だったけれど、その爽やかな秋空にも気づかず美雨は、ずっとうつむいたままで駅の裏手にあるケーキ屋まで歩いた。


 美雨が店に入って行くと、待っているという言葉通りに阿久津が奥の席でコーヒーを飲んでいた。いつものスーツ姿ではなく、かのこ地のオフホワイトのカットソーにこげ茶のチノパンツという休日らしいラフな服装だ。

 確かに阿久津なのに阿久津じゃないような気がして、一瞬美雨は言葉が出なかった。そんな美雨に阿久津は柔らかく微笑んで、こんにちはと言った。


 「休日なのに本当に申し訳なかったね、お昼はもう済んだかな?」

 「あ……はい、食べて来ました」

 「じゃあ、好きなケーキを頼むといいよ」

 「いえ……」


 いつも美雨たちが行くと気安く話しをする朔夜は、今日は何も言わずに注文を聞くとすぐに奥に下がって行った。美雨が紅茶だけを頼んだので阿久津は、ケーキ屋さんなのにケーキを頼まないと失礼じゃないのかなと、英介がのんびりと店番をしているカウンターの方を見ながら小声で訊いた。


 「このお店、あまり細かいことは気にしないみたいなんです。奥さんも旦那さんもおおらかって言うか、私たちがいくら長居しても何も言われないし。それどころか、奥さんも私たちと一緒にお茶飲んだりするし」

 「よく来るの?」

 「はい、あゆみ……えっと、藤田さんや沢口さんと一緒に」

 「そうか、楽しそうでいいね」


 そう言うと阿久津は、カップを持ち上げてコーヒーを飲んだ。そして、このコーヒーも美味しいよと笑う。


 「あの、先生」

 「ん?」

 「えっと、その……あの、何かご用があるのでしょうか?」

 「うーん、まあそうなんだけどね」

 「あの、何でしょう?」


 呼び出した癖に、阿久津はなかなか口を開こうとしなかった。ゆっくりと味わいながらコーヒーを飲んでいる。お待ちどうさまと朔夜が紅茶を持って来て、ごゆっくりとさがって行っても何も言わない。美雨は紅茶に手を出す気にもなれず、じっと阿久津の言葉を待った。


 「ごめんよ、中森くん。呼び出しておいて、実はまだ迷っているんだ。生徒である君にこんなこと言うのはとんでもないことだからね」

 「あの?」

 「でも実際、困っているんだ。かなり困っている、そして焦っている」


 何をお困りなんですかと美雨が訊くと、阿久津はカップを受け皿に置いた。そして目を伏せてしばらく考え込んでいたが、ようやく決心したように顔をあげた。


 「中森くん、夏休みの終わり頃に君が言ったことを覚えてるかな?君は、僕を好きだと言ってくれたね」

 「あ、はい。それは、もちろん」


 もちろん覚えていますと続く筈だった美雨の言葉は、だったら結婚してくれないかという阿久津の言葉に遮られた。


 「……え?」

 「もちろん、高校を卒業してからでいい。何なら、大学を卒業するまで待ってもいい。だけど、婚約だけはすぐにして欲しいんだ。どうだろう、駄目かな?」

 「……」


 それから阿久津は、母の病状のことと、母が阿久津が結婚することを心待ちにしていることなどを正直に全て美雨に話して聞かせた。そして、本気で結婚を考えてみたら見合いで適当な人を選ぶのではなく君がいいと思ったのだと言って、話を置いた。


 「どうだろう、考えてみてもらえないだろうか」

 「……」

 「ごめんよ、驚かせてしまったね」

 「あの、私……」


 美雨は、何と答えたらいいのかわからなかった。いや、阿久津が何を言っているのか、それすらよくわからない。


 今、目の前にいて、美雨に結婚を申し込んでいるこの人は確かに美雨の憧れの人だ。

 ずっと好きだった、いつか恋人になれたらと夢見ていた。


 その人が今、確かに美雨にプロポーズをしている。

 これが物語なら、最高のハッピーエンドだろう。


 だけど、これはハッピーエンドだろうか?

 こんな結末を、本当に美雨は望んでいたのだろうか……。


 美雨の前で紅茶が冷めていく。うつむいて固まってしまった美雨に阿久津は、またごめんよと謝った。


 「もちろん、嫌なら断ってくれて構わないから」

 「嫌だなんて、そんな……」

 「じゃあ、OKしてもらえるのかな?僕は、本当に君と結婚したいと思っているのだけど」


 ゆっくりと美雨は顔をあげた。すぐ目の前に、美雨がずっと憧れてきた人の優しい笑顔があった。




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