183 携帯電話はこたえない
十数回のコールの後に留守番センターに切り替わった携帯を握りしめて涼華は、馬鹿と叫んで電話を切った。テーブルの上に携帯を放り投げたあとも、あの馬鹿あの馬鹿と繰り返す。
そんな涼華の前に、静かにロイヤルアルバートのカップが置かれた。
青い薔薇が描かれたこのカップには、『ムーンライトローズ』という優美な名前がついているらしい。その名を知ってから涼華は、この『cafe marron』にコーヒーを飲みに来るたびにあの青い薔薇のカップにしてと頼むようになった。
今では、何も言わなくてもムーンライトローズで出してくれるようになっている。
「涼華さん、荒れてますね。どうかしましたか?」
「荒れてなんてないし、どうもしない。慧一、ホットサンドは?」
「すぐにお持ちしますよ」
モーニングはとっくに終わっている時間なのに、涼華がモーニングメニューのホットサンドセットを頼んでも慧一は何も言わない。常連だから特別扱いなのか涼華だから特別扱いなのか、そのあたりのことはわからないけれど。
お待たせですと、コーヒーの横に置かれた皿から早速ホットサンドを一枚つまみあげ、ひと口噛むと同時にさっき放り投げた携帯に手を伸ばす。右手にホットサンドを持ったまま涼華は、左手だけで幼馴染のナンバーを呼び出した。
ほんの一分ほど前にかけて出なかったのだから、今度も出る筈がない。留守番センターに恨みはないけれど、こう何回もお馴染みの『おかけになった電話は』のメッセージを聞くと腹が立って来るというものだ。
大馬鹿狐野郎と叫んで携帯を放り出すと涼華は、まるで親の仇か何かのようにホットサンドに噛みつく。とけたチーズと厚く切ったハムが口の中で混じり合って美味しい筈なのだけど、どうにもこうにも味がしない。それもこれもあれもどれも、全部あの狐のせいだろう。あの馬鹿あの馬鹿あの馬鹿と、涼華の呟きはどんどんと早口になる。あの馬鹿あの馬鹿あの馬鹿馬鹿、狐の癖にあの馬鹿と、何の罪もない全国の狐たちには実に気の毒な呟きが延々と続く。
「涼華さん、独り言は小さい声でお願いします」
苦笑いを浮かべた慧一にそう言われ、涼華はどっしりと据わった目で店内を見回した。こちらに背を向けて、カウンター席に座っている太った男の肩が揺れているように見えるのは気のせいだろうか。涼華の後ろの席に座った母と娘らしい2人連れがくすくすと笑っているようなのも気のせいだろう、気のせいに決まっている。
「また矢田部さんですか」
「誰よ、それ」
「はいはい」
彦一は涼華と同じくこの店の常連なので、もちろん慧一は彦一を知っているのだ。二人が幼馴染だということも、彦一が涼華を追いかけ回しているということも知っている。
また矢田部さんですかと訊いた慧一の苦笑いには色んな意味が含まれている気がして、涼華は急に気まずくなって『あの馬鹿』を連発するのを止めた。
「慧一、コーヒーおかわり」
「まだ飲んでないみたいですけど」
「今から飲むから、おかわり」
「はいはい」
軽く肩をすくめてからコーヒーポットを取りにカウンターに向かう慧一の背中に、涼華は思いきり舌を出した。年下の癖に態度が生意気と、そんな意味のあかんべーだ。
さてさて、お代わりを要求したからにはコーヒーを飲み干さなければならない。ムーンライトローズのカップを持ち上げて涼華は、まだ十分に熱いコーヒーに口をつけた。悔しいけれど、慧一が淹れたコーヒーはやはり美味しい。昨日の夜からずっとささくれ立っている神経をなだめてくれるほど、深い味わいだ。
夕べ遅く、母から電話があった。電話の内容はと言えばいつも通りの、お父さんがどうしたとか弟がどうしたとかお隣の犬のポチがどうしただとか、腰が痛いだの肩がこるだの白髪が増えたけれど染めるべきかとかの、わざわざ東京まで電話して喋ることかと言いたくなるような四方山話と、それにこれもいつもお決まりのいい加減に結婚しなさいというありがたくてあくびが出そうなお説教だった。
これも親孝行と我慢してつき合っていた涼華もいい加減いやになって来た頃、そういえば矢田部さんところは大変だねと幼馴染の名前が飛び出した。何が大変なのと聞くと、何でも旦那さんの隠し子が現れたとかどうとか。詳しいことは知らないと言いつつ母は、歳の頃は涼華より少し上くらいの女がしばらく前から矢田部屋にいついて、店番なんかをしているということを教えてくれた。
その瞬間、鮮やかに思い出したことがあった。いつだったか……そう、あれは夕日町の七夕祭りの頃だ。彦一は涼華に、半分だけ血の繋がった姉ちゃんと運命の出会いをしたとかほざいた。確かに言った、もんのすっごいふざけた態度で!
「ムカつく……あの男、こういうとこが嫌なのよ」
今度は笑われないように、ごくごく小さい声で涼華は呟いた。
どう聞いても冗談にしか聞こえなかった、『半分だけ血の繋がった姉ちゃんと運命の出会いをした』というのが本当だなんて誰が思うだろう?しかし現に矢田部屋では、見慣れない若い女が働いているという。ただの店員ではないことは、旦那さんと女将さんの腫れものに触るようなぎこちない態度で丸わかりだという。
「……あの狐め、またどこぞの女のとこにしけ込んでるわね」
役立たずな携帯を指先で弾いて、涼華は残りのコーヒーをまだ少し熱いのも構わずごくごくと飲み干した。そしてカラになったカップを差し出し慧一と、年下で生意気なバリスタの名を呼んだ。