181 飛べない鳥のように
はい、と差し出されたスポーツドリンクを受け取って和馬は、だらしなくベンチの背もたれにもたれかかったままでその冷たい缶を額に押しつけた。すとんと隣に座った希羅梨の手には、ミルクティーの缶が握られている。
ごめんねと、小さく謝る声に苦笑いしてしまう。謝られてしまうと、さすがに情けなくなって来る。ループコースターに乗り過ぎて酔ったなんて、あまりにカッコ悪い。
「阿部くんて、そう言えばループコースター苦手だったんだよね」
「いや、俺は普通だと思うぞ。誰だって、連続で八回も乗ればこうなる」
「私は、平気だよ?」
「だから、お前が普通じゃねえんだって」
確かに希羅梨は、絶叫三回転ループコースターに乗ると宣言してこの遊園地に来た。それはわかってる、わかっててつき合った。でもまさか、八回連続で乗るなんてさすがに想定外だ。
和馬は、まだぐらついている頭を何とか起こし、缶のプルトップに指をかけてあけた。冷たいスポーツドリンクを喉に流し込むとちょっとすっきりした、少なくとも吐き気は治まってきた。
希羅梨もミルクティーを開けると、ゆっくりと飲み始めた。ベンチに座っている二人の前を小さな女の子の手を引いた親子連れが通り過ぎて行く。
「土曜日なのにすいてるね」
「しけてるからな、この遊園地。そのうち潰れんじゃねえか」
「ええ、嫌だ!私、ミラクルランド大好きなのに」
「だろうな」
くくっと、和馬は喉の奥で笑った。希羅梨がこの目玉といえば三回転ループコースターだけという、今時子供ですら喜ばないような小さな遊園地を好きなことぐらい訊かなくてもわかる。開園と同時に飛び込んでからの数時間、希羅梨は楽しそうに園内を駆け回っているのだ。これが失恋の憂さ晴らしだなんて言っても誰も信じないくらい、それはもう本当に楽しそうに。
「……なあ、姫宮」
「うん?」
「その、何だ……俺、聞いた方がいいか?つまり、どうして雪都と……いや、言いたくないなら聞かねえけど」
「うーん、別に言いたくない訳じゃないんだけど」
「いや、言いたくねえんならいいんだ。話した方がすっきりするかなと思っただけだから」
「ううん、言いたくないんじゃなくて、うまく言えないの。どうしてかな……あのね、私、雪都くんのことは本当に大好きなんだ。だけどね、好きなのに違うの。雪都くんもそうだったんだよ、だからもう終わりにすることにしたの」
「意味、わかんねえんだけど」
「だから、うまく言えないって言ったじゃない」
「喧嘩別れした訳じゃねえんだな?」
「うん、違うよ。今までありがとうって言って、さよならした」
「そうか、それならよかった。いや、よくねえのか?えっと、つまり何だ」
うまく言えないのは、和馬の方だ。元気だせよとか、だからとにかく元気だせとか、とりあえず元気だしとけとか、そう言った感じのことを言いたいのだけれど、そんなことを言う以前に希羅梨の様子は元気そのもので、ループコースター八回連続攻撃に先にダウンしたのは和馬の方な訳で、もし和馬がダウンしなければ確実に十回連続を達成しただろうことや容易に予想できて。
だから、何を言いたいかと言うと元気だせと言いたいのだけれど、だけどやっぱり何だかそれは的外れのような気がして。
「あー、だからだな……って、悪ぃ、何て言えばいいのかわかんねえや」
どうすればいいかわからなくて困ってますと顔に大きく書いてあるような和馬に、希羅梨はくすくすと笑った。そして和馬の方はというと、さも可笑しそうに笑っている希羅梨をただ見ているしかできない。
情けなくて、滅入る。
これでは、希羅梨の方が男らしいではないか。
ひとしきり笑ってから、またゆっくりとミルクティーを飲みだした希羅梨の横顔にあの夏の終わりに河原で見た泣き顔が重なる。やはりあの時は、雪都とのことで悩んでいたのだろうか。そして昨日、全部ふっきって別れを決めたのだろうか。
どうしてそんなに強いんだと、和馬は思う。頼る者なく、たった一人で生きている希羅梨の境遇を思うと、和馬の胸は締めつけられる。
どうしてそんなに強いんだ、どうして笑えるんだ。
強くなくていい、悲しければ泣いていいのに。だけど今日、希羅梨は笑っている。和馬が思わず見惚れてしまうような、きれいな笑顔で。
「あのね、阿部くん。ループコースターにつき合ってくれただけで十分なんだよ、ありがとう」
「そうか……んじゃ、もう一回いっとくか?絶叫三回転ループコースター」
「無理しなくていいよ、それよりお昼ご飯食べようよ」
お腹すいちゃったと言いながら、希羅梨が軽い動作で立ちあがった。しなやかに振り向くその動きに合わせて、長い髪がふわりとひろがる。
どうしてそんなに強いんだろう?
希羅梨を見ていると、健気という言葉ばかりが頭に浮かぶ。あんなに華奢な体で希羅梨は、必死で足を踏ん張って立っているのだ。
その姿は空に憧れて、だけど飛べないでいる鳥のようだ。足元が覚束ないから飛び立てない、大地に足をつけて踏ん張り通すしかない。
唐突に和馬は、希羅梨を力いっぱい抱きしめたくなった。
抱きしめて、無理すんなと言いたくなった。
今までは、希羅梨の隣には雪都がいた。だから和馬は、希羅梨の厳しい状況が気になりつつも放っておくことが出来た。
だけど今は、希羅梨は本当の意味で一人で立っているのだ。
もしも和馬が抱きしめれば、華奢な希羅梨なんてすっぽり包み込んでやれるだろう。無理しなくていいと言いたかった。俺が守ってやるから一人でそんなに頑張らなくていいと、そう言いたくなった。
そういえば、セスナとつき合うようになった切欠もこんな想いからではなかっただろうか?和馬とセスナは、どちらかがはっきりと告白した訳ではなくいつの間にか曖昧につき合い始めた訳だが、セスナがたった一人の肉親であった姉を亡くし、養女という肩身の狭い立場にあることを知ってから和馬はセスナのことを守ってやりたいなんて、そんな風に思うようになったのがつき合いだした切欠だったような気が今になってしてきた。
本当に、かなり今更だけど。
「レストラン行こうよ、阿部くん」
「あ、ああ」
早く行こうと急かされて和馬が立ち上がると、やはり希羅梨は嬉しそうに笑った。水色の空に溶けてしまいそうな笑顔だ。
「……姫宮」
「え、何?」
「いや、何でもねえ」
「そう?」
どうしてそんなに笑うのだろう……俺の前で無理することねえのにと、和馬は思った。そして、雪都を殴ってやりたいと思った。希羅梨の話を聞いた限りでは雪都が悪い訳ではないようだけど、それでも雪都を殴りたくなった。
中学の時に、招待券を貰ったという春樹に引きずられてこの遊園地に来たことがある。美和と和香、そして希羅梨が一緒だった。あの時も希羅梨は笑っていただろうか?さっきからずっと考えているのだけれど、どうしても思い出せない。あれは、希羅梨が兄を亡くしてそうたっていない頃だった。
「確か、あの赤い屋根がレストランだったよね?」
「そうだったか?」
「うん、そうだよ」
大型の遊具の向こうに見えてる赤い屋根を指差して、お腹ぺこぺこと希羅梨が笑う。
その笑顔があまりにきれいで、そして今にも消えてしまいそうなくらいに儚げで和馬は、ほんの少しでも気を抜けば伸ばしてしまいそうな手にぐっと力を込めていた。