179 あなたの幸せを祈ってる
阿部と書かれた表札を前に、希羅梨は深呼吸をした。受験生、それも国立大学の医学部を目指している人の貴重な一日をこれから騙して奪おうというのだから、呼び鈴ひとつ鳴らすのにもなかなか勇気がいる。
今日、美和と和香が家にいないことは確認済みだ。和香の空手の昇段試験が今日あることも、和香が試験を受ける時には必ず美和が応援に行くことも聞いている。土曜日の朝だから、阿部家の大黒柱である父の和俊は仕事な筈だ。自宅と棟続きになっている病院の方で診療中だろう。
ということは、この呼び鈴を鳴らせば十中八九、彼が出て来る。
希羅梨が想ってやまない、彼が。
もう一度、希羅梨は大きく深呼吸した。
緊張している訳ではない、心臓は穏やかに一定のリズムで打っている。そう、自分でもおかしいと思うけれど希羅梨は、ひどく落ち着いていた。
深呼吸のついでに空を見上げると、遥か上空まで澄んだ水色が広がっていて、絶好のデート日和だ。
「息抜きも必要だよ、阿部くん」
そんな独り言をつぶやいてから、呼び鈴に手を伸ばす。音符のマークが描かれている部分に人差し指の先を押しあて、ぐっと力を込めた。ピンポーンと鳴った呼び鈴の音が、ひどく間延びして聞こえた。
「はい?」
「あ、阿部くん?おはよう、姫宮です」
「姫宮?」
インターホン越しに短いやりとりをした後、すぐに玄関の扉が開いた。グレーのジャージの上下に裸足という、いかにも起き抜けな格好で和馬が顔を出す。
「ごめんね、朝早くに。美和ちゃん、いるかな?」
いないことはわかっている、だけど希羅梨はにっこりと笑ってそう訊いた。我ながら、詐欺師の才能があるんじゃないかと思う。
案の定、和馬は「あー」とか何とか言いながら、眉間の皺をぐぐっと深くした。
「悪ぃ、出かけた。美和も和香もいない」
「そっか……えっと、何時頃に帰って来るかわかる?」
「夕方になると思うぞ、何か美和に用か?」
「用ってほどのことじゃないんだけどね、美和ちゃんに遊園地つき合ってもらえないかなぁっと思って。あ、約束とかは全然してないんだけどね」
「遊園地?」
「うん、そうなの。どうしても今日、ミラクルランドの絶叫三回転ループコースターに乗りたい気分なんだ」
「は?」
ドアを開けたままの体勢で喋っていた和馬が、裸足にボロボロのスニーカーをつっかけて門扉のところまで出て来た。和馬の背後でバタンとドアが音を立てて閉まる。
「どうしても、どーしても乗りたいんだけど、一人で行くのは寂し過ぎるじゃない?でも、春樹ちゃんは空手教室の昇段試験の付き添いしなきゃとかで、今日は都合が悪いんだよね」
「ああ、美和たちが行ってるのもそれだ。和香が初段を受けるんだよ」
「そっかぁ、和香ちゃんの昇段試験なんだ。それで美和ちゃんも応援に行ったんだね」
とっくに知っていることなのに、初めて気づきましたという小芝居を打つ。台詞回しがわざとらしくなかったかなと和馬の様子を伺ったけれど、和馬はまるで気づいてないようで、また悪いななんて謝ってくれた。
「うー、じゃあやっぱり一人で行くしかないかなぁ?あーん、寂し過ぎるー」
手を目の下にあて、泣き真似なんてしてみた。いや、これはいくら何でもわざとらしかったかと、目の下にあてた手はそのままに上目づかいでそっと盗み見れば、和馬は困ったように頭をガリガリと掻いていた。
「明日じゃ駄目なのかよ、遊園地」
「ダメ、絶対に今日乗りたいの、叫三回転ループコースター」
「何でまた……」
「今日、乗らなきゃ駄目なの、どうしても駄目なの」
「だから、何で?」
重ねて問われて、希羅梨はうつむいた。どうしてループコースターに乗りたいのか、この質問に対しての答えは、もちろん用意して来た。これに答えたら、優しい彼のことだから間違いなく遊園地につき合ってくれるだろう。
作戦成功、希羅梨は和馬とデートすることが出来る。
「姫宮?」
だけどそれは、彼の優しさにつけ込むということだ。それは、してはならないことのような気がして足が震えた。今の今まで全然緊張してなかったのに、この場に及んで自分は何てことをしてるんだろうと思えて来たのだ。
「あのね……」
だけど、思い出が欲しい。
契約解消を言い出した雪都は今日、きっと彼女に告白するだろう。しっかりと前を向いて、ぶつかることを決めた雪都はすごいと思う、強いと思う。
希羅梨は、頑張れと言った。本当に心の底から、雪都の恋が実ることを祈っている。
だけど、希羅梨自身の恋は、実ってはいけないのだと思うのだ。
雪都は、お前も告白しろと言ったけど、和馬なら困らせても大丈夫だなんて笑ってくれたけれど、希羅梨と雪都では事情が違う。同じように片想いしているように見えるけれど、雪都の想い人である美雨はまだ阿久津とつき合っていない。だけど、和馬には彼女がいる。希羅梨が自分勝手に想いをぶつけて困るのは和馬だけではない、希羅梨にとっても大切な友人であるセスナをも苦しめてしまうのだ。
だから、言わない。
雪都に意気地無しと呆れられてもいい、言わないと決めている。
ずっと前から、そう決めている。
だけど、恋を捨てることはしない。
無理矢理に諦めるなんて、元から無理な話だった。
好きなものは好き、そう開き直ることにした。
言わない、絶対にこの想いは秘め続けてみせる。だけど、好きなままでいる。いつか時間が希羅梨の想いを昇華させてくれるかもしれないし、それともあっけなく別の恋を見つけて和馬に恋してたことなんて忘れてしまうかもしれない。
その日まで、希羅梨は和馬を好きなままでいようと決めたのだ。
だけど、この決意を貫き通すこれからの長い時間のことを考えると気が遠くなる。これまでは、傍らに雪都がいてくれた。だけど、これからは一人だ。一人で、踏ん張り続けなければならない。
思い出が欲しいと思った。
たった一日でいい、デートしたい。
大好きな彼と過ごした思い出をエネルギーに変えて、そしてこれからを生きて行く。
「んじゃ、雪都を誘えばいいだろうが。あいつも大変そうだけど、お前のためなら一日くらいつき合ってくれるって」
見上げる空は、きれいな水色。絶好のデート日和だ、さらりと乾いた秋の風が気持ちよく希羅梨の肌を撫ぜて行った。
雪都くん、あなたの幸せを祈ってる。
私は意気地なしだから壊すことは出来ないけど、あなたは頑張って。絶対にあきらめないで、彼女を手に入れて。
頑張れ、頑張れ、頑張れ。
私はいつだって全力で、あなたの幸せを祈っているから。
希羅梨は笑った、その儚げな笑顔に和馬が思わず見惚れたことなど気づかずに。そして希羅梨は、大きく息を吸い込んでからとどめの台詞を静かに言い放った。
「駄目だよ。雪都くんとは昨日、別れたから」
和馬の目が大きく見開かれるのを希羅梨は、やはり笑顔のままで見ていた。