17 気づかないフリしておいてやる
黄色い買い物カゴを右手に持ち、左手で自分の手を引いている兄の横顔を見上げながら晴音は思った。
おにいちゃん、ごきげんさんだ。
いつも無愛想な兄は、今も変わらず不愛想だ。それでも晴音にはわかる、今の兄はとても機嫌がいい。
「晴音、晩飯は何食いたい。カレーか?」
「めんたまハンバーグ」
「わかった、カレーな」
「……」
三日前から、母が大鍋いっぱいに作ったカレーを食べさせ続けられている晴音はプーッと頬を膨らませてみたが、何故か機嫌のいい兄は見てもくれない。最初からカレーと決まってるなら訊かなければいいのにと睨みつけても、雪都は晴音には見向きもしないでパンが並んでいる棚からどれでもいいとばかりに一番上にあった五枚切りの食パンをカゴに放り込んだ。
晴音と雪都の母、十和子は勤務時間があってなきが如しな看護婦のために時間がある時に料理を作り溜めして、それを雪都が晴音に食べさせるというのが永沢家の基本的な食事パターンなのだ。
ちなみに十和子の料理の腕は悪くはないのだが、レパートリーが乏しい。暖め直せば何度でもおいしく食べられる料理ばかり作るので仕方ないのだが、カレーとシチューとおでんとポトフ、それに肉じゃがと筑前煮がハードローテーションするのは何とかならないものか。
「めんたまハンバーグ!」
無視し続ける雪都に業を煮やして、晴音はささやかな実力行使に出た。雪都の手を振りほどき、手を腰に当てて売り場通路のど真ん中で足を踏ん張って仁王立ちして見せたのだ。
「カレーでいいだろうが、まだ残ってんだよ」
さすがに雪都が晴音を見た、妹の仁王立ちに明らかな呆れ顔だ。
「ダメ、めんたまハンバーグなの!」
やっと自分を見てくれた兄に、晴音はふんぞり返って声を張り上げた。ちなみに『めんたまハンバーグ』というのは晴音の造語で、目玉焼きがのったハンバーグのことだ。
「お前、昼飯にハンバーガー買って帰るんだろ。夜もハンバーグ食うつもりか?」
「食う」
「肉ばっか食ってっと、太るぞ」
「う?」
「ブタになったら、タケちゃんに嫌われるかもな」
「うう?」
「ま、別に俺はかまわないけど」
地面に根が生えたかのように動こうとしない晴音は放っておいて、雪都はすたすたと歩き出した。飲み物の紙パックが並んでる中から牛乳をドカドカッと二本、カゴに入れる。週に二回も三回も買物に来るのは面倒だから、まとめ買いするのだ。鮮度という面では落ちるが、そこは目を瞑ることにしている。
「ジュースは、いらないんだな?」
「いる―っ」
雪都は、十和子よりも晴音の扱いに長けているのだ。無邪気で天邪鬼で、まるで鉄砲玉みたいな晴音をうまく制御できるのは雪都を置いて他にはいない。
晴音は自分が抗議行動をしていたことも忘れて、まんまと雪都の元に駆け寄ってしまった。ひんやりと冷たい陳列ケースに顔を突っ込んで、牛乳の隣に並んでいるジュースを物色し始める。りんごジュースにしようか、それともオレンジジュースにしようかと悩んでいたら、くくっと上の方から笑い声が聞えた。
そっと見てみると、雪都が笑っていた。いつも仏頂面の兄が笑うなんて、滅多にないことだったりする。
どうしてこんなにごきげんさんなんだろ?
世にも珍しい兄の笑顔を見あげながら、晴音は首を捻った。雪都はニヤッと嫌味っぽく笑うことはあっても、こんな風には笑わない。少なくとも、晴音が雪都にごまかされた程度では、笑顔なんて見せないのだ。
……さっきのおねえちゃん?
図書館で会った美雨の顔を、晴音は頭に思い描いた。
確か、中森と兄は呼んでいた。嫌になるほど無口で、晴音以外には親であってもそんなに喋ろうとしない雪都が美雨とは喋っていた。しかも、自分から晴音の保育園のことなんか持ち出したりなんかして。
ふーん、へえー、ほほー。
雪都が晴音の扱いに長けている反面、晴音もまた雪都を知り尽くしていたりする。本当にこの兄は、無表情がデフォルトなのだ。知らない人が見たら何か怒ってるのかと思うような顔ばかりを毎日見ている晴音には、今の雪都の顔は緩みまくって見える。
なるほど、かわいいおねえちゃんだったもんね。
ついでに言うと、晴音は五歳にして恋を知っている。保育園の園長である更木健に一途な恋心を寄せているのだ。こと恋愛に関しては、一端の勘を働かせたりして。
「晴音、そんなに悩むようなことか?」
いつまでもジュースの陳列ケースに顔を突っ込んだままの妹に雪都は呆れた声をかけたが、晴音の頭の中にあるのはジュースのことではない。
ふーん、おにいちゃんでもすきなひとがいるんだ。
晴音はオレンジジュースのパックを掴み、雪都に差し出した。やっと決まったかとそのパックを受け取って、カゴに入れている雪都の顔を晴音は、まるで絶滅寸前の希少価値のある動物か何かのようにまじまじと見つめた。
「……何だ?まだ他に欲しいものがあるのか?」
「べっつにー」
そう言うと、晴音はパタパタと駆け出した。今日のところは気づかないフリしておいてやるか、なんて思いながら。