177 何もできないけれど
研究中と書かれたプレートがかかっている扉を澪は、トントンと二回だけノックした。パソコンの作動音だろうか、中からは微かに音が聞こえるのに返事はない。
澪は十秒ほどそのまま待ったが、やはり返事がなかったので足音を立てないようにそっとその場を離れた。
澪の父、沢口トキオは俗に言う『変人』という人種に属するのだということは、娘である澪ですら素直に認めていることだ。確かに父は、かなりおかしいと澪は思う。
年がら年中、研究と称して部屋に閉じこもっているけれど、一体何を研究しているのか皆目見当もつかない。我が道だけを突き進むタイプで、周りのことなどお構いなしだ。自分に娘がいることすら、覚えているのかどうだかあやしい。よくあれで高校の教師なんて務まるものだと澪は、本当に心の底からそう思う。
澪はキッチンに入ると、父の分の食事にラップをかけていった。なすの揚げびたしにきゅうりの酢の物、それに焼いた秋刀魚。ご飯にも味噌汁にもラップをかけて、それらを全部盆に乗せてまた父の部屋に向かう。
ドアの脇に置いておけば、いつの間にかカラになっている。食べてくれるだけで十分だと思う、一緒に食卓についてくれなくてもいいと思う。
例えば澪の大切な友達である美雨は、両親が忙しくていつも家で一人でいる。子供の頃からずっとだからもう慣れちゃったと、そう言って笑う。
だけど澪は、美雨の方が自分よりマシだと思う。
家にいるのにいない人と一緒に暮らしている自分より、きっぱりいない美雨の方が断然いい。それに美雨の両親は、美雨をほったらかしている訳ではない。それどころか常に娘のことを気にかけて、目に入れても痛くないと言うほどに慈しんでいる。
澪の父は毎日家に帰って来るし、休日だって娘を残して出かけたりしない。
だけど、いるのにいない。
部屋のドアをノックしても返事はないし、食事も一緒には取らないのだからいないのと同じだ。いや、それならいっそいない方がいい。その方が諦めがつくというものだ。
澪は、キッチンに戻ると自分の分の食事をダイニングテーブルに運んだ。そして、一人静かに食べだした。
秋刀魚は脂がのっているし、なすも味がよく染みている。美味しいと思う、だけどそれだけだ。もしも澪の母という存在がここにいたら、どんな料理を作っただろうか。
澪の母は、澪が物心つく頃には既にいなかった。父に母のことを何度も訊いてみたけれど、まともに答えてもらえたことはない。
娘でさえ認める『変人』の父だから、母は愛想を尽かして出て行ったのだろうか。それよりも、そもそも自分は本当に父の娘なのだろうか……考えれば考えるほどわからなくなって、最後には恐くなってしまうから澪は、そのあたりのことはあまり考えないようにしている。沢口澪という人間は確かにここに存在しているから、そのことだけを受け入れるしかないのだと思う。
喋る相手のいない、一人きりの食事に時間はかからない。ものの数分で食べ終わると澪は、汚れた食器をカシャカシャと流し台に運んだ。
さっさと 片付けてしまおうと水道の蛇口をひねったのと、電話が鳴り出したのはほぼ同時だった。水を止めて、濡れた手をタオルで拭いてから澪は、廊下に置いてある電話に向かった。今時、アンティークショップにでも行かなければお目にかかれないようなダイヤル式の黒電話の受話器をあげると、澪ちゃん?と可愛い声が澪の名前を呼んだ。
「もしもし、澪ちゃん?私、美雨。あのね、今……えっと、ちょっとお喋りしていい?」
どうしたのと訊けば、携帯にかけたんだけど出なかったからと美雨は答えた。
そう言えば、携帯は学校から帰って来たまま鞄に入れっぱなしだ。二階の澪の部屋の鞄の中で鳴っていたなら、一階にいた澪に聞こえる筈がない。
だけど、澪の「どうしたの?」は、「どうして家電にかけたの?」という意味ではなかったのだけれど。
澪はちらりと、廊下の一番奥にある父の部屋を見た。さっき澪が置いた盆はそのまま、まだ手をつけた様子はない。
ふっと静かに笑って、澪は受話器を握り直した。
「美雨ちゃん、勉強は大変?家庭教師の先生は、いい先生って言ってましたよね」
「あ、うん。アル先生は、とってもいい先生だよ。優しいし、丁寧に教えてくれるし……ちょっと、澪ちゃんに雰囲気が似てるかも。……あ、アル先生は、本当の名前はアルビナって言うんだ。スペイン人なの……て、この話はもうしたっけ?」
「最近、ゆっくりお喋りしてませんね」
「そうだね……また、黒猫にケーキ食べに行きたいね。でも、あゆみちゃんが大変そうだし……」
電話線を通じて澪に届く美雨の声は何故か途切れ途切れで、何だかいつもより元気がないように聞こえた。もっとも最近の美雨は、休み時間にたまに会ってもどこか沈んでいる様子で、明るく喋っていたかと思うと不意に黙りこんでしまったりすることがある。
それだけ、受験のプレッシャーが重いのだろうか。あのパワーの固まりのようなあゆみですら、勉強のしすぎで痩せたというくらいなのだから。
澪は、高校を出たら進学せずに就職することにした。澪の成績なら国立だって狙えるのにと、二年生の時の担任である阿久津はそう言って惜しんでくれたけれど、澪は就職クラスを希望したのだった。
早く、自分の力で生きられるようになりたかった。あの父が、いつまでも澪の傍にいてくれるとは限らないのだから。
「えっとぉ……」
電話の向こうで口ごもる美雨に、澪は微笑んだ。何か相談したいことがあって電話したのに言い出せない、プツプツと途切れる言葉の合間からそんな感じが伝わって来る。受験の相談ではないだろうと、澪は思った。勉強がはかどらないからどうしたらいいのなんて相談だったら、澪ではなくて家庭教師の先生なり、それとも美雨が憧れている阿久津なりにするだろうから。
「もしかして美雨ちゃん、卒業したら阿久津先生と会えなくなっちゃうとか心配してるの?」
「……」
図星だったのだろうか、美雨は返事をしない。
告白すればいいじゃないと澪は、なるべく優しく聞こえるようにと声の音量を調節した。自分の気持ちに素直で、だけど少しだけ恋には臆病な友人の背中をそっと、本当にそっと押してあげたかった。
「……あのね、澪ちゃん……ちょっとね、澪ちゃんとあゆみちゃんにもなかなか言えなかったんだけど実は、告白はしたの。好きだってつい、言っちゃったんだよね」
「え?」
「勢いだったんだけどね、何かね、言っちゃったの」
「え……えええ!」
「嬉しいって言ってくれたよ、返事はもらえなかったけど」
「そうだったの……」
ということは、美雨はもう失恋したということになるのだろうか?
美雨が憧れている阿久津優介という教師は澪たち高校生の目から見たらひどく大人で、生徒なんて相手にしないだろうと澪は美雨の気持ちを知ってからずっと思っていた。だけど、もしかしたらとも思っていたのだ。
「美雨ちゃん、大丈夫?」
「え?……あ、違うの。そうじゃないの、返事をもらえなかったからって落ち込んでる訳じゃなくて、えっと……」
そうじゃないのと小さな声で何度か繰り返した後で美雨は、ごめんねと言った。ごめんねと、これも何度か繰り返した。
「私、頭の中がぐちゃぐちゃで自分でもよくわかってないみたい。もうちょっとちゃんとしたら話を聞いてくれる?あのね、あゆみちゃんにも澪ちゃんにも秘密にしようとか、そんなつもりじゃないの。二人にちゃんと聞いて欲しい……私ね、あゆみちゃんも澪ちゃんも大好きだからちゃんと全部話したい。だけど、今はまだ駄目みたい。ごめんね」
ごめんね、ごめんねと何度も何度も繰り返す、美雨の声が不安気に掠れている。一体どうしたのと訊きかけて、澪はその言葉を飲み込んだ。
今はまだ駄目だと、美雨が言ったではないか。だったら、今はまだ駄目なのだろう。
「美雨ちゃん、謝ることなんてないよ」
「……うん」
「私もあゆみも怒ったりしないもの、美雨ちゃんは美雨ちゃんのしたいようにしてね」
「私の、したいように?」
「そう、私たちのことなんて気にしなくていいの。話したかったら話して、話したくなかったら話さなくていい、それでいいの」
「そっか……うん、そうだね」
「美雨ちゃん、大丈夫だよ。何もできないけど、私もあゆみも美雨ちゃんの味方。絶対に、ずっと友達だから」
ありがとうと言って、美雨は電話を切った。ツーツーと、無機質な機械音が聞こえる受話器をしばらく見つめてから、澪はゆっくりとそれをフックに戻した。
誰にだって悩みはある。優しい両親の庇護の元、ぬくぬくと幸せに暮らしているように見える美雨だって何か悩んでいる。
高校生はもう子供じゃないけれど、自分一人の力で生きられるほど大人でもない。だから、友達を作るのだろうと澪は思う。
友達のために何かができる訳ではないけれど、悩みながら躓きながら、手を貸し合いながら卒業までの道のりを一緒に歩くのだと、そんな風に思うのだ。
さて、後片づけをしてしまおうかと澪が歩きだそうとした時、ガシャとドアの開く音がした。思わず振り向くと、父の部屋からぬっと腕が出るのが見えた。そして、さっき澪が置いた盆がズズッ、ズズッと部屋の中に引き込まれて行く。
全部食べてくれたらいいな、そう思いながら澪は軽い足取りでキッチンに戻った。今日の秋刀魚は、脂がのって美味しかったから。