176 dear my brother
風呂からあがって、缶ビール片手に階段を上ると何やら弟の部屋から声が聞こえた。慧一は、ノックもせずに怜士の部屋に入った。
窓際に立って電話している怜士にはかまわずどかっとベッドに腰を下ろすと、プルタブに指をかけてビールをあける。怜士は横目でちらっと慧一を見たが、くるっと体の向きを変えて慧一に背中を見せるとまた携帯に向かって喋りだした。
「わかった、じゃあ明日の朝むかえに行くから。ああ、いいって。わかった、わかったから」
電話の相手が誰なのかなんて、考えるまでもなくわかる。好きな女の子相手だといつもよりぶっきら棒な話し方になることを、あの純情な弟は気づいているのかいないのか。
慧一は、冷えたビールをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。勿論、この世の中で一番おいしい飲み物はコーヒーだと思うが、風呂上がりはやはりビールだろう。この瞬間だけは、どんなに香高いコーヒーもビールの前にひれ伏す。
「今日は早く寝ろよ……ああ、わかったっての」
慧一がいるからわざとだろう、怜士は電話を切ってチッと舌を打った。本当は踊り出したいくらいの気分だろうに、平静を取り繕ろっているのか慧一に背を向けたままで携帯にコードを繋いで充電なんかしている。
「今の、セスナちゃんか?」
「ああ、まあな」
「明日は、デートか」
「違う」
「そうか、違うのか。そりゃ、可哀想にな」
わざとそんな風にからかうと、怜士はおもしろいほど素直に反応する。つまり、ギロリと慧一を睨んだのだ。慧一にしてみれば可愛いったらない。
怜士は、下世話な言い方をすれば慧一の種違いの弟ということになる。まだ幼かった慧一を連れて、母の里美がこの田之倉家に嫁いだのだ。格式高い華道の家元が子連れ女と結婚した訳だから、当時は一波乱も二波乱もあった。だけど父は、母と慧一をがっしりと守りきってくれた。
そして、やがて弟が生まれた。
怜士が生まれた日のことは、慧一は一生忘れないだろうと思う。産院のベッドの上で誇らしげに笑っていた母、目を細めて愛しそうに赤ん坊を抱きあげた父。慧一の胸も、弟が出来た喜びではちきれそうだった。
怜士が産まれて、世界は一瞬にして幸せ色に塗り替えられたような気がした。
「けど、セスナちゃんと会うんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「上手くやれよ」
「何をだよ?」
あの小さかった赤ん坊が今では、図体はでかいし態度もでかいしで、可愛いとこなんて欠片もなくなってしまった。だけど慧一の目に怜士は可愛く映る、たった一人の可愛い弟だ。
そして、華道田之倉流の唯一無二の正統後継者。
田之倉流の生け花は、可憐にして大胆。初めて父が生けた花を見た時、まだほんの子供だった慧一は思わず息を飲んだ。
決して派手ではないのに、周りの空気を有無を言わせずに従わせるような女王の品格が父の生ける花にはあった。
凄いと思った、憧れた。けれど、慧一には父の血が流れていない。田之倉流を継ぐのは弟、怜士なのだ。
確かに腐った時期もあった、どうして自分は田之倉流を継げないのかと。だけど、そんな頃でさえ慧一は、怜士が可愛かった。怜士が継ぐなら、それはそれでいいかと思うほど可愛かったから慧一は、華道よりも夢中になれるものを探しはじめた。
そして慧一は、手塚柾とそのコーヒーに出会ったのだ。
「アレは、ちゃんと持ってるか?」
「アレ?」
「ちゃんと持って行け、男の義務だからな」
「だから、アレって何だよ?」
「アレは、アレだろうが」
ここまで言われても避妊具のことだと気付かないあたり、この弟はどこまで純情なのか。男だったら好きな子と二人で会って助平なことを考えない訳ないだろうに、煮えきらないにもほどがある。怜士の性格で嫌がる女の子を無理矢理どうこうすることはないだろうが、それでも何かの拍子でもしかしたらそういう流れになるかもと、欠片も考えないあたりが怜士なのだろう。
アレって何だよとしつこく訊いて来る怜士を無視して、慧一はビールを飲んだ。やはり、風呂上がりはビールだ。絶対にビールだ。
「んなことより、兄貴はどうなったんだよ?何つったか、店の常連のきれいな人、落としたのかよ?」
「ああ、ふられた」
「は?」
ずっと憧れていた人に告白して、速攻でふられたのはもう三ヶ月近く前のことだ。それからも涼華は変わらず店に来て、慧一の淹れたコーヒーを美味しい美味しいと飲んでくれる。その変わらなさが慧一の想いを更に募らせる結果になったことなど、涼華は知りもしないだろうけれど。
「あっさりふられた、全然脈なしだ」
「って、兄貴」
「お前は失敗するなよ、絶対にセスナちゃんをゲットしろ」
「……」
しばらくじっと慧一を見つめていた怜士だが、いきなり走り出すとすごい勢いで部屋を出て行った。何だどうしたと思ったけれど、そのまま慧一がビールを飲み続けているとすぐに戻って来た、両手に抱えきれないほどビール缶を持って。
つき合うと、真顔で言う怜士に慧一は吹き出した。やはり怜士は底抜けに可愛い、慧一のたった一人の弟だ。