175 秋は夕暮れ
日が落ちるのが早くなったなと、校門を出た途端に彦一は思った。教科別の打ち合わせ会議を頭痛がすると仮病を使ってフケて来たのに、もう街は夕暮れの淡い光を浴びている。
今日の夕陽は茜色というよりも、黄色味が強い。イチョウの葉を思い出させるような、黄金色だ。
「秋は夕暮れね、なるほど」
清少納言もうまいこと言うなどと、いかにも古典教師らしいことを考えて彦一は一人へらっと笑った。こんな美しい夕暮れを、一人で過ごすなんてあまりに味気ない。
彦一は上着の内ポケットから携帯を出すと、登録してあるアドレス帳を表示させた。OLを呼び出すには時間が早い、ここはこの前知り合ったばかりの女子大生にすべきか?切れ長の目が少しだけ涼華に似ている娘だ、胸のボリュームは全然たりてなかったけれど。
まったく、あの女子大生の百分の一でも涼華が簡単だったらいいのにと思うと、彦一は思わず笑ってしまう。ちょっと誘ったらほいほいと足を開くあの娘ほどの軽さは求めないけれど、せめてキスくらい、いや出来たらもうちょい何とかならないものだろうか。
不可侵の女神、彦一にとっての涼華はまさにそれだ。神々し過ぎて、あと一押しが出来ない。しっかりしているようでどこか抜けているところのある涼華だから、彦一がその気になれば無理矢理にだってものにすることは容易い。
だけど、それが出来ない。神々しいから。
「……あんな色の友禅があったな、涼華に似合いそうや」
この夏、久々に帰郷した時に店先に広げて飾ってあった友禅が彦一の目の前に広がっている空と同じ色だった。金色の地に花やら鳥やらを華やかに描いた見事な着物だ、背の高い涼華に着せたらさぞや映えるだろう。
彦一の実家は、京都で呉服屋を営んでいる。彦一はそこの一人息子で、本来ならば跡取りということになる。だけど、親戚一同が呆れるほどの頼りにならない放蕩息子は東京の大学に進んで、そのまま教師になって今に至る。
両親にはどうか帰って来てくれと何度も何度も懇願されているが、のらりくらりとかわし続けてもう五年だ。せめて盆と正月には顔を見せておくれという、最近は髪に白いものが目立つようになった母に泣かれても彦一の腰はなかなかに重い。これが、涼華に「一緒に帰りましょうよ」なんて誘われたならほいほいと帰るところだが、彦一の麗しの女神様は東京暮らしが性に合っているのかあまり帰ろうとしない。
そんな彦一が、たった数日とはいえこの夏は帰郷したのにはあまり楽しくない理由がある。あれは七月に入ったばかりの頃だ、彦一は偶然に半分だけ血の繋がった姉と安っぽいテレビドラマも真っ青な運命の出会いをしたのだ。
バーで知り合った見ず知らずの女と意気投合するなんて彦一にしてみればよくあることだし、そのまま酔った勢いでどこかにしけこんでも携帯のメモリーが一件増えたな、程度のことだ。
しかしその夜は、ほんの少しだけ事情が違った。
どんな話の流れだったのかは覚えていないが、彦一は何気なく僕の実家は呉服屋なんよ、みたいな話をした。それが京都河原町の矢田部屋と聞いて、それまで笑っていた女の顔が一瞬にして強張った。つーと女の頬を伝った涙に彦一は、ほろ酔いの頭で今の話のどこに泣く要素があったかと考えた。
まだ両親が結婚する前のことらしい、父が店に勤めていた若い店員に手を出した。
父が本気だったのか遊びだったのか、それはわからない。だけど、女の方はかなり本気で父を愛していたようで、父によい縁談が来ると黙って姿を消したのだそうだ。
高卒で、何の取り柄もない自分なんかより、嵐山の老舗料亭のご令嬢の方がふさわしとか何とか、そんなことを考えて自ら身を引いたのだとか。
女は一人で東京に出て来て、そこで初めて自分が身ごもっていることを知った。堕胎することも、父を頼って京都に戻ることも出来ただろうに、女は愛する男の子供を密に産んで育てたらしい。
あなたが私の弟なのねと涙で化粧がぐしゃぐしゃに崩れた女に抱きつかれ、彦一が思ったことはとりあえず、まだベッドインする前で良かったということだった。まあ、それは置いといて、ひと目でいいから父に会いたいと言う姉を伴って、彦一は数年ぶりに京都に帰った。
結婚前のことだから浮気ではないが、それでもこのことを母に知らせるのは憚られる。だから姉を京都駅近くのシティホテルに泊めて、彦一は単身で実家の敷居を跨いだ。そしてその夜に、飲みに行こうと父をうまく誘い出して親子の初対面と相成った訳だ。
父は、女房の我儘にもにこにこと笑っているような押しの弱い優男の癖に、曲がったことが大嫌いな昔堅気な面も持ち合わせている。知らなかったこととはいえ本当にすまなかったと、潔く頭をさげた。姉の母、つまり父が昔関係を持った女がすでにこの世の者でないことを知ると驚いたことに迷いもなく姉の手を引いて家に連れ帰ってしまった。
そして姉を、矢田部屋の娘として迎えたいと土下座して母に頼んだのだ。
あの押しつぶされそうなほどに重苦しい数日は、思い出したくもない。確かめてみなければ信用できないという母の主張で父と姉が親子鑑定を受け、その結果が出るまでの三日間とそれからの何日か。
苦労知らずのお嬢様育ちの母は、少し泣いた。だけどほんの少し泣いたその後は、彦一も目を瞠るような京女の芯の強さを見せた。
結婚前のことだった、というのが母にしてみれば大きかったらしい。これも男はんの甲斐性のうちやと、姉を受け入れたのだ。そして、六年前に実の母を病気で亡くしたという姉に、今日からは私をお母はんと呼びなさいと胸を張って言ってのけた。
それだけなら感動的な話だと言えるだろう、だけど現実は美談だけでは終わらない。
姉が無事に京都に落ちつくことになって、ほんなら僕は東京に帰るわと彦一が荷物をまとめていた時、母が音もなくすっと彦一の部屋に入って来た。そして言った、次の春で教師を辞めて帰って来るようにと。
それは今までの、どうか帰って来ておくれという『お願い』ではなく、有無を言わさない『命令』だった。
姉を矢田部屋に入れるのはいい、それは仕方ない。けれど、店までやるつもりはないと母はどっしりとすわった目で彦一を睨んだ。
もしこのままお前が帰って来なければ、矢田部屋は姉のものになる。それだけは許せない、どうしても許せない。
だから今の受け持っている生徒たちが卒業したら帰って来いと母は言った、それは厳命だった。
彦一は別に、店を継ぐのが嫌な訳ではない。むしろ、教師なんて堅苦しい商売より呉服屋の旦那の方が性に合っている気がする。東京に住みたい訳でもないし、故郷が嫌な訳でもない。それでも帰らない理由は一つだ、この街には女神がいる。
どうして涼華なのか、そんなことはわからない。女なんていくらでもいるし、現に彦一はこれまで女に不自由したことはない。
そこそこの容姿と軽い口先と、ついでに公務員という意外性でもって彦一は笑えるほどもてる。彦一が誘えばついて来る女なんて掃いて捨てるほどいるから、彦一の手の中の携帯には好きな時に呼び出せる女の子たちのナンバーが常時二桁は保存されているのだ。
だけど、一番欲しい女だけがどうしても手に入らない。
だから、涼華は女神なのだろう。全く、神々しいったらありゃしない。
「……」
彦一は、呼び出すつもりだった女子大生の番号ではなく、涼華の携帯の番号を呼び出した。いつかけてもコールを十回以上聞いたことがないのは、自惚れていいのかどうだか。
案の定、コールは三回で止まった。彦一?と、涼華の声が聞こえた途端に彦一の顔はへにゃっと緩む。
「彦一?アンタ、病院には行ったの?」
「あ?」
「頭痛いんでしょ、アンタも片頭痛持ちだもんね」
「あー……」
教科別打合せ会議をフケるために使った頭痛がするという仮病をどうやら涼華は信じたらしい。長年のつき合いで彦一の性格を知り尽くしていて、彦一のことなど欠片も信用していない筈の涼華なのに、こんなところは抜けているのだ。
つけ込むならここだろう、どう考えてもここしかないだろう。
「涼華、よう聞いてや。僕、何やえらい病気らしいんよ。あといくらも生きられへん、そやから結婚して」
「……」
「涼華、聞いとる?最期の頼みやん。後生やって、僕と結婚してえな」
我ながら名案だと思ったのに、受話器からは「ひこいちぃー」と地の底を這うような涼華の低い低い声が聞こえた。長いつき合いだけあって、いくら抜けててもこんな見え透いた嘘は簡単に見破られるという訳だ。
「彦一、アンタって奴は言うにことかいて!今度ばかりは許さないわよ、地獄に堕ちろ」
「何ゆうてるの、涼華。僕、嘘なんて言うてないよ。病気や、ホンマや。そんで、涼華と結婚したい」
「まだ言うか!」
「僕、涼華がほんまに好きなんよ、ほんまに」
「馬鹿彦一!」
ぷつっと切られた電話を握りしめて、彦一はぐっと眉根を寄せた。これだけ口説いても効かないなんて、本当に女神様は手ごわい。
「……しゃーないな、この前の女子大生にしとこ」
彦一は女子大生のナンバーを呼び出して発信ボタンを押した。呼び出しコールが鳴り続ける携帯を耳に押し当てたままで、金色の街をゆっくりと歩く。
涼華と違って女子大生は、なかなか電話に出なかった。