174 季節外れの桜
失礼しましたと頭をさげて和馬とセスナは、並んで生徒会室を後にした。セスナが廊下を歩きながら広げて見ているのは、たった今もらって来たばかりの文化祭実行委員の活動スケジュールや役割分担が書かれたプリントだ。さっと目を通したセスナが、なんだこれだけかと小さく呟く。
「何だ?」
「来週の水曜の放課後、実行委員会の会議がある。各クラスの委員は、クラス参加の有無をその時までに決めておくようにだそうだ。参加しないクラスの委員は来週の会議のあと、文化祭前日の打ち合わせ会議まで何もすることはないようだ。文化祭当日には、見回りや受付の仕事があるみたいだがな」
「そんだけか?」
「そうみたいだな」
「なんだ、実行委員なんつってもたいしたことねえんだな」
「クラス参加するなら細々とした雑用が山ほどあるみたいだがな、どうせうちのクラスは参加しないだろう」
「だろうな、まあ一応は訊いてみなきゃならんだろうけどよ」
貸せと言われてセスナは、見ていたプリントを和馬に渡した。頭をボリボリと掻きながらプリントを読んでいる横顔に、何もつき合わなくてもよかったのにと小さな声で言う。
「あ?」
「だから、貴様まで実行委員を買って出る必要はなかったんだぞ、和馬。私は、高校生活の最後にこんなことをやってみるのもいいかと思ったから立候補しただけなのだからな」
本当の本音を言えば、嬉しかった。和馬が俺がやると立ち上がった時、セスナの身の内にふわっと暖かなものが広がった。
セスナはもう夢を追うと決めたから、受験はしない。だけど、国公立進学クラスであるA組のクラスメートたちはみんなほんの少しの時間も惜しんで必死に勉強している訳だから、だったら受験をしない自分がやればいいとセスナは実行委員を買って出たのだ。
何なら一人でやってもいいと思っていた。実行委員はクラスで二人と決まっているけれど、もう一人は名前だけで仕事は全部セスナ一人でやってもいいと思っての立候補だった。だけど、和馬が立ちあがってくれたのだ。
最後に、和馬と二人で実行委員をやれる。
それが嬉しい、どうしようもなく嬉しい。
「お人好しだな」
「うるせえよ」
ほらっと返されたプリントを受け取ってセスナは、窓の方を向いて和馬から顔を逸らした。駄目だ、嬉しい。窓に映ってる顔がなんともしまりない。
「お前って、やっぱあれか。青蘭、推薦でフリーパスってやつ?」
「あー……そうだな、余程ひどい成績でない限り、試験を受けさえすれば合格するだろうな」
そっぽを向いたままで、セスナは答えた。かなり不自然な首の角度なのに、和馬はどうやらその不自然さに気づいていないらしい。
義兄の柊也は、青蘭女子大の理事長に妹を頼むと言ったと言っていた。もちろん入試は受けなければならないが、それは形だけのものとなるだろう。最初からかなりの寄付が見込める飛鳥井家の娘を、私立大学が受け入れない筈がないからだ。
「んだよ、やっぱそういうことか。羨ましいやつだな」
「そう言うな、そんなに良いものでもないぞ」
セスナはまだ、進学をやめることを和馬に話していなかった。憧れのデザイナーの元に弟子入りすることが決まって、そして義兄とも話し合ってちゃんと許してもらった後に、初めて和馬に夢のことを打ち明けるつもりなのだ。
デザイナーになると言ったら、和馬はどれほど驚くだろうか?驚いて、そして頑張れと言ってくれると思う。
初めて会った頃から少しも変わらない力強さで、きっとセスナを応援してくれるだろう。
「もう少しだ、もう少し」
「何が?」
「それは、内緒だ」
「お前って、時々わかんねえこと言うよな」
昨夜、携帯に電話がかかって来た。発信者が 『中森草一郎殿』 と出ていたので、慌てて通話ボタンを押した。しかし受話器から聞こえて来た声は、草一郎のものではなかった。
お久しぶりねと、柔らかなアルトがセスナの耳に響く。何度も電話してくれたのになかなか時間が取れなくてご免なさいねとセスナの憧れの人は、優しい声で謝ってくれた。
「和馬、勉強は進んでおるか?」
「何だよ、急に」
「だから、受験勉強だ。進んでおるのか?」
「まあ、ぼちぼちと」
「合格できそうか?」
「んなこと、やってみなきゃわかんねえよ」
「そうか、それはそうだな」
出会った最初から、和馬の夢は揺るぎない。町医者をやっている親父の跡をつぐ、医者になると和馬は言う。大きな病院で救急患者の受け入れが難しくなりつつあるというニュースを度々耳にするようになってからは、和馬の決意はさらに固くなったようだ。
真夜中だろうが早朝だろうが、誰かの具合が悪くなったら飛んで行く医者になると和馬は言う。『なりたい』ではなく、『なる』と言い切るあたりが和馬らしい。
そんな和馬がセスナはずっと羨ましかった。
和馬があまりにはっきりと将来のビジョンを描いているから、セスナはその隣にいるのが自分で本当にいいのだろうかと何度も思った。
セスナには、将来の夢なんて何もなかった。
夢がなかったから、義兄の敷いてくれた安全なレールの上をそのまま走ろうと思っていた。身寄りをなくしたセスナを妹にしてくれた義兄が命じるままに生きるのが、セスナの最善の道なのだと思っていた。
力強い口調で医者になると言い切る和馬の隣に、自分の将来さえ自分で決められないような自分がいていいのかと、そんな風にセスナはずっと思っていた。
だけど、セスナは夢を見つけた。義兄ではなく、セスナ自身が見つけた夢だ。
いつかは別れることになると覚悟を決めていたこの人と、もしかしたらこのまま一緒に歩いて行けるかもしれない。デザイナーになる夢が叶ったらもしかしたら、ずっとこのまま。
そんなことも思った。
「私も頑張るぞ、和馬」
「あ?」
「頑張る」
「そうか?何かよくわかんねえけど、頑張れ」
この週末はずっと事務所にいるからいつでも来ていいと栄は言った。だから明日、行こうと思う。朝一番で行こうと思う。
「よし、頑張るぞ!」
廊下の真中で足を止め、両手を振り上げていきなり頑張るぞ宣言をしたセスナに和馬は、何を張りきってんだよと苦笑いを浮かべた。するとセスナはくるりと振り向いて、内緒だと言って笑った。
「……」
その笑顔がまるで季節外れに咲いた桜の花のようだった、なんて思わず頭に浮かんだベタなフレーズを和馬は慌てて心の裏側に隠した。ついでに、『なんだよこいつ、こんなに可愛かったか』なんて思ったことも一緒にしまい込む。
ゴホンとわざとらしい咳をひとつして、和馬は帰るぞと歩きだした。帰りにアイスくらいは奢ってやってもいいかな、などと思いながら。