173 昨日よりも明日よりも
「飛鳥井さん、カッコよかったなぁ」
屋上の鉄製の手すりに肘をつき、ぼんやりと空を眺めていた希羅梨が唐突にそんなことを呟いた。その隣で手すりに背を預けて床に座り込んでいた雪都は、単語帳に落としていた視線をのろのろとあげた。
「……あ?」
「カッコよかったよね、さっき。すっくと立ち上がって私がやろう、なんて」
希羅梨が言っている『さっき』が五時間目のロングホームルームのことだと気づいて、雪都はまた単語帳に戻った。暗記は苦手ではないが、こう数が多くてはさすがに手こずる。
「飛鳥井さんて、青蘭女子に行くんだよね。やっぱり、推薦で楽勝ってことなのかなぁ?」
「さあな」
「飛鳥井さんのおうちって、本当にすごいおうちなんだよね。飛鳥井さんが普通だからいつもはつい忘れちゃってるけど、飛鳥井財閥って大きな会社をいっぱい持ってるんだって」
「らしいな」
「もしかして飛鳥井さんの友達ですって言ったら、就職できちゃったりするかな?」
「かもな」
「すごいよねぇ」
「……」
こうひっきりなしに話しかけられては、暗記は無理だ。雪都は、諦めて単語帳を閉じてポンッと床に放り投げた。
「私がやろう、だよ?カッコいいよ、すっごくカッコいい」
「お前はさっきから何が言いたいんだ?」
「だから、飛鳥井さんてカッコいいよねって話じゃない」
「それはもうわかったっつーの」
雪都が下から軽く睨むと、希羅梨はヘヘッと誤魔化すように笑ってから雪都のすぐ隣にぺたんと座った。コンクリートの床に足を投げ出し、短いプリーツスカートの裾を引っ張る。そして雪都を見上げ、またヘヘッと笑う。
「何かこういうの、変な感じだね」
「別に……今までだって屋上で何度も喋ったろうが」
「それはそうなんだけど、今までのはどちらかと言うと作戦会議というか、そんな感じだったじゃない?でも、今は違うんだよね」
「違わねえだろ、前と同じだ」
そうかなぁと首をかしげる希羅梨に、雪都はふうっと短く息を吐いた。
半月ほど前、本当につきあっちゃおうかと希羅梨に言われて、雪都はいいぞと答えた。だから今、二人は本当につき合っている恋人同士ということになるのだろう、多分。
「普通の恋人同士は、受験でもデートするんですかね?」
「知らん」
やけっぱちとも言えるなりゆきとはいえつき合うことになった雪都と希羅梨だが、だけど大体つき合うとはどういうことをするんだなんて、片想い歴ばかりが自慢出来るほど長い二人は揃って考え込んでしまった。
『休みの日にデートするとか?』という希羅梨の提案は、『受験生だぞ』という雪都の一言で却下された。以下、『帰りに一緒に帰るとか?』『方向が全然ちがうだろうが』『じゃあ、お弁当を二人だけで食べるとか?』『他の連中に何て言うんだよ、今まで一緒に食ってたのに不自然だろうが』という会話が続き結局、『放課後の何時間かを一緒にお勉強しましょう』ということで落ち着いた。
とは言っても希羅梨はまだバイトを続けているので、要するに単に一緒に勉強するだけの放課後お勉強会デートは今日でまだ三回目なのだけれど。
「私たちって、やっぱり何か違うような気がしない?」
「だから、知らん」
前の二回は図書室で向かい合って勉強したのだが、今日は屋上に行こうと言い出したのは雪都だ。図書室だと、美雨と二人で勉強した夏休みを思い出してしまうのが嫌だからとは言わなかったけれど、希羅梨は雪都の気持ちを察しているのかいないのか、いい天気だもんねと軽い足取りで屋上に続く階段を上った。
「みんな、どんな風につき合ってるんだろうね」
「さあな」
前の二回は図書室だったから、勉強会という名目通りに二人はそれぞれ黙々と勉強しただけだった。一緒に過ごしたと言えば過ごした訳だが、確かに何か違う気がした。夏休みに美雨と一緒に勉強した時とは全く違う時間だったと、希羅梨に言われなくても雪都だってそう思う。
図書館で美雨と一緒だった時には、何だかふわふわと足が地についていない感じだった。 彼女がちょっと身じろぎしただけで気になったし、話かけられたりなんかしたらその度ごとに心臓がひっくり返った。
何でもないような顔を取り繕っていたけれど、自分でも呆れるほどに彼女を意識していた。だけど、これが希羅梨だと違う。
一緒に勉強しているのは同じなのに、希羅梨だと全然気にならない。一人で勉強してるのと変わらない、公式はすらすらと頭に入って来る。
空気みたいな存在が理想的な伴侶なのだと、いつかどこかで聞いたことがある。何故かこんなことになっているけれど、それが正しいならまさしく希羅梨はそれだろう。一緒にいても気にならない、希羅梨は雪都の隣にしっくりと馴染んでしまう。
いつだって自分のことは二の次で、人のことばかり思いやるいい娘だと知っている。見た目が可愛いのは言わずもがなだし、頭だって運動神経だっていい。
実はすごい彼女なんだということぐらい、雪都だってわかっている。雪都を羨んでいる男なんて、掃いて捨てるほどいるだろう。
希羅梨はいい娘だ、理想の彼女と言ってもいいかもしれない。
だけど、希羅梨は美雨とは違う。
一緒にいても足は地にしっかりとついたままだし、心臓もひっくり返らない。
それは、希羅梨も同じだろう。
希羅梨だって、雪都には何も感じていない。
お互い、友達としてはかなり好きな部類だと思う。男と女だけど、似た者同士だからなのか気兼ねはないし、他の誰にも話さないようなかなり突っ込んだことだって希羅梨になら言ってしまうことがある。
希羅梨を好きかと訊かれたら雪都は、迷いなく好きだと答える。だけどもし、美雨が好きかと訊かれたら……即答は出来ない気がする。それはやはり、『好き』の種類が違うせいなのだろう。もしも今、隣に座っているのが希羅梨ではなくて美雨だったら、きっと雪都はこんなに落ちついてなんていられない。
「じゃあね、キスでもしてみますか?」
悪戯っぽく、笑いながら希羅梨はそう言った。雪都はそれには何も答えず、いきなり希羅梨の腕を掴んでそれを手すりに押しつけた。
「やっ、やだ!」
両方の二の腕を掴まれ手すりに押しつけられて動けなくなった希羅梨は、近づいて来た雪都の唇を見た瞬間に思わず目をつぶって叫んでいた。
自分からキスしようかなんて言った癖に、そんな気が全くなかったことを瞬時に思い知ってしまった。無理すんなと、低い声で言われて目を開けた。雪都は、掴んでいた希羅梨の腕をすぐに放した。
「なあ、もう無理するのはやめないか?」
「……え?」
そう言うと雪都は、疲れたように空を見上げた。
鮮やかな天色の空に、ぽっかりと浮かぶ雲を目で追う。
希羅梨が相手なら、こんな真似だって平気で出来る。触れ合うほどに近づいても感じない、むなしさ以外は。
もしも本当に唇を重ねたとしても、やはり感じはしないのだろう。
雪都だって男だから、女の子とキスしたいという欲望くらいある。だけど、違う。何かが違うとしか、言いようがない。
「もうやめよう、いくら何でも不毛過ぎる。認める、俺は中森が好きだ。中森じゃないと駄目だし、中森以外は欲しいと思えない」
「……」
そして雪都は、空に向けていた目を希羅梨の方に向け直した。雪都のグレーがかった不思議な色の瞳が希羅梨を映す。
「お前も、もう誤魔化すのはやめろ。阿部が好きなんだろうが、認めちまえ。仕方ないだろ、好きなもんは。いいじゃないかよ、その気持ちはお前のもんだ」
希羅梨の目に、見る見る涙が盛り上がって来た。最初の一筋が頬を伝うと、すぐに次の一筋が伝う。大きく目を見開いて、雪都を見つめたままで希羅梨は涙を流した。
「姫宮、覚えとけ。男はな、好きな女じゃなくてもエロいことはできる」
「……何、それ」
「でも、女は違うんじゃないのか?俺は、女になったことないから知らないけど」
だからもう二度と冗談でもキスしようなんて言うなと、真顔でそんなことを言う雪都に希羅梨は笑った、泣きながら笑った。あまり希羅梨が笑うからつられたのか、雪都も目を細めた。それはこの上なく優しい顔だった、なんて優しい人なんだろうと希羅梨は思った。雪都を好きになってもおかしくないのに、どうして自分はいつまで経っても彼しか見えないのだろうと、そんなことも思った。
恋は、我儘だ。
自分の都合のいいようには、絶対に曲がってくれない。
「姫宮……悪い、契約を解消してくれ」
希羅梨のためにも、そして自分のためにも卒業までつき合っているふりを続けようと雪都は思っていたが、どうやらもう限界らしい。希羅梨には、好きじゃない女でもエロいことできるなんてうそぶいたけれど、希羅梨にキスするふりをして雪都もまた気づいてしまったのだ。
欲しいのは美雨だけなのだと、他の誰も美雨の代わりにはならないのだと。
キスぐらいは何でもない、希羅梨に言った通りにそれ以上のことだって出来るだろう。だけど、虚しい気がした。虚しくて虚しくて、心が空っぽになる気がした。
「姫宮、ごめんな」
そう言って、頭をさげた。すると希羅梨は黙って立ち上がって、たたっと走って五メートルほど雪都から距離を取った。
そして、まだ座り込んでいる雪都に向かってぴしっと背筋を伸ばして立つと、すうっと息を吸い込んだ。
「今までありがとう、本当にありがとう」
辺りに響くような大声でそう叫んで希羅梨は、腰から体をふたつに折って、深く深く頭をさげた。雪都も立ち上がった。そして、希羅梨と同じように深く頭を下げる。
希羅梨の健気な潔さを雪都は好きだと思う、たまらなく好きだと思う。幸せになって欲しい……もし希羅梨を好きになれたらその時には、俺が無理矢理にでも幸せにしてやるとそう思うのに。
恋は、我儘だ。
昨日よりも明日よりも今、彼女を想っている。
「雪都くん、ちゃんと中森さんに好きだって言いなよ」
「お前も言え、阿部なら少しぐらい困らせても大丈夫だ」
「少しかなぁ?」
「たくさん困らせても大丈夫だ」
じゃあ思いきり困らせてやるかと希羅梨が笑い、その調子だと雪都が笑った。二人の笑い声は秋晴れの空に、吸い込まれるように消えて行った。