172 噂は信じない
和馬は最近、時間が飛ぶように過ぎて行くように感じる。つい何日か前に二学期が始まったと思ったのに、もう九月が終わる。
早い、とにかく早い。まったく、どうなってんだと思う。
朝起きて、学校に行って勉強する。学校が終わったら、帰って勉強する。
毎日、その繰り返しだ。
空手部に顔を出すのはめっきり減った、体がなまらないようにと始めた腕立て伏せもこのところサボり気味。そして気づけば、もうすぐ十月だ。
日々が鬱々と、だけど駆け足で過ぎて行くようだ。勉強はしているのに、気ばかりが焦る。これじゃ駄目なんだと、根拠もなく思う。
受験生とは皆が皆、こんなものなのだろうか?自分一人が焦っているような気がして和馬は、周りを見回してみた。
だけど彼女も、友人たちもみんな和馬に横顔ばかりを向けている。呼べば振り向いてくれるとわかっているけれど、あいつらだって大変な時期なのだから自分の勝手で呼んではいけない気がして、和馬は黙り込む。
そして、時間だけが過ぎて行くのだ。
「文化祭の実行委員、誰か立候補はありませんか?」
ようやく暑さが緩んできたせいか、それとも明日は土曜で休みだからなのか、だれきった空気が漂っていた五時間目のロングホームルームで、黒板に『文化祭実行委員』と、その横に『立候補者』と書いて、チョークを持ったまま振り向いたこのクラスの委員長、市川博隆のよく通る声が和馬の耳を右から左へと通り抜けて行った。
もう文化祭なのかなんて和馬は、昼食後の半分寝ぼけた頭でぼんやりと考えた。本当に、時間が経つのが早い。
「いませんか?じゃあ、推薦は?」
『立候補者』と書いた字から少し隙間をあけて博隆は、今度は『推薦』と書いた。その横に推薦された者の名前を書くつもりなのだろうが、いくら見まわしても手は上がらない。それどころか博隆と目を合わせたくないのか、ほとんどの生徒がうつむいたままで無反応だ。
それはそうだろう、刻々と受験が迫っているこの時期に、実行委員なんて面倒なことは誰だってやりたくなくて当たり前だ。
進学校である沢浪北高校の文化祭は、一年生と二年生でやるものと暗黙の了解で決まっている。クラス単位の出し物も、クラブごとの催しも全て一、二年でやる。
たまに就職クラスである三年E組が参加することがあるが、それはそれだ。大事な受験生をひかえたA組からD組は、文化祭なんて関係なく勉強にいそしむ。そして、文化祭当日だけ申し訳程度に参加するというのが、沢浪北高校のスタイルになっている。
だけど、参加しないにしても実行委員は出さなくてはならない。
クラスで二人だけ、貧乏くじを引くという訳だ。
「いなかったらくじ引きになるけど、いいかな?」
溜息まじりの博隆の声を、和馬はやはりぼんやりと聞き流していた。そして、思い出していた。あれはいつだったか……二学期が始まって二週間も過ぎた頃だったろうか、帰ろうと廊下を歩いていた和馬は、今ちょうど前で喋っている市川博隆に呼び止められた。
博隆とは二年、三年と同じクラスだがそんなに親しい方ではなく、顔を合わせればあたりさわりのない話をする程度のつき合いだ。どちらかというと気が合わない気が和馬はしていた。と言っても、気が合わないと断言できるほど喋ったことはないのだけれど。
その博隆に和馬は呼び止められた。もうすぐ下駄箱というところで阿部と呼ばれて振り向いてみると、和馬と同じように帰り仕度をした博隆がちょいちょいと手招きしていたのだ。
和馬は数歩戻りながら、何だよと訊いた。
だけど博隆は、呼びとめておきながらなかなか口を開かなかった。
「おい、市川。何の用だよ?」
「いや、用というほどのことじゃないんだけどね」
「だから、何?」
「これは、君の耳に入れるべきなのかどうなのか……」
「何?」
気が合わないと思うのは、こういう時だ。博隆はたまに、こんな風にじれったい態度を取ることがある。それが、何に対しても直球勝負な和馬には気に食わない。いわゆる、虫が好かないというやつだ。
「まあ、飛鳥井さんに口止めされた訳ではないから、秘密ということでもないんだろう」
独り言なのか、口の中で呟くようにそう言うと博隆は、またちょいちょいと手招きして和馬を階段下の人気のないスペースに誘った。無視して帰ってやろうかと思ったが、セスナの名前が出たことが気になって和馬は、不承不承ながらについて行った。
「阿部、田之倉怜士という名前に心当たりはあるか?」
「はあ、何だそりゃ?」
「知らないのか?」
「知らねえよ」
博隆の話は、夏休み中のことだった。夏休みにセスナが学校の被服室でドレスを縫っていたらしい。それで博隆は、手芸部の部長として被服室の使用許可を取ることと、洋裁の簡単なレクチャーを頼まれたのだとか。
それはいい、セスナは手芸部なのだからドレスくらい縫うこともあるだろう。博隆も快く引き受けたというのだから、それはいい。
ただ問題なのは、セスナは一人ではなかったということなのだ。
毎日、被服室でドレスを縫っていたセスナの傍にはいつでも田之倉怜士という名の男がいたと博隆は言った。セスナは、怜士を幼馴染だと博隆に紹介したという。堂々と紹介してくれたから博隆も特に気にしなかったらしい、その時は。
「いくら学校の中とはいえ女の子が一人でいるのは危ないからね、田之倉くんが付き添っていたのは別におかしなことじゃないと思うよ。ただ飛鳥井さんは夏休み中、ほとんどずっと被服室にこもっていたんだ。僕がつき合ったのは最初の方だけだったから絶対そうだとは言わないけどね、たまに様子を見に行くといつでもいたからそうだと思うよ。つまり、田之倉くんもずっと被服室にいたってことだ。ただの幼馴染がそこまでつき合うかなとちょっと思ったんだ。別に僕は、変な想像をしている訳ではないんだけどね。だけど、君は知っているのかなと段々気になって来てね。飛鳥井さんから何も聞いてない?」
聞いてないと答えたら、博隆はふーんと少しだけ考え込んだ。だけどすぐに、それだけのことだから気にしないでと言い捨てて帰って行った。残された和馬は、そのまましばらく動けなかった。同じ制服を着た生徒たちがぼつぼつと帰って行くのを、ぼんやりと眺めていた。
和馬は元々、噂なんてあてにならないものは信じない主義だ。現についこの前も、雪都が夏休みに中森美雨と図書館で一緒に勉強していたとか、二人で仲良さそうに街を歩いていたなんて噂を聞いたが、それも事実はどうということのないものだった。というのも和馬は、雪都と二人で喋っていた時に確認してみたのだ。元から噂なんて信じていなかったけれど、希羅梨が泣いていたことがまだ気になっていたので一応訊いてみた訳だ。
図書館で一緒に勉強したことは事実だし、その帰りに送って行ったことも事実だと雪都は答えた。だからどうしたと訊き返されて、和馬はそれならいいと答えた。
同じ街に住んでいるのだから図書館で偶然出くわすこともあるだろうし、雪都なら女の子を一人で帰すようなことはしないだろうと思ったからだ。
ほんの少し考えれば実に当たり前のことなのに、噂になった途端に事実はいやらしく歪んで聞こえる。だから、和馬は噂を信じない。気になったら、直接本人に確かめればいい。
その信条に則って和馬はセスナにも直接訊いた、博隆に呼び止められた次の日の昼休みに。その日の夜のうちに電話で訊かなかったのは、そんなたいしたことではないと思ったからだ。わざわざ電話して問いただすことはないと思った、そう思いたかった。
セスナは、市川殿の言った通りだと答えた。夏休みに手芸部のミシンを借りてドレスを縫った、文化祭に出品するつもりだとも言った。そして、田之倉怜士という男のこともあっさりと教えてくれた。
華道を習いに行っている家の次男だということ、中学からのつき合いなので気兼ねがいらないのだということ、怜士も高三だがエスカレーター式の学校だから受験がなく、それでつき合ってくれたのだということ。
訊けば訊いた分だけ、セスナはすらすらと答えた。声の調子もいつも通りだったし、隠し事がバレて焦っている風ではなかった。訊いている和馬の方が何でこんなことを訊いてるんだろうと恥ずかしくなってくるほど、セスナはいつも通りだったのだ。
もっとも、何でいきなりドレスなんて作ろうと思ったんだよという和馬の質問にだけにはすぐには答えず、セスナは待ってくれと言った。
「まだ言えぬ、もう少しだけ待ってくれ」
「まだって……前にもそう言ったよな。一体、いつまで待てばいいんだよ?」
「和馬には、ちゃんと決めてから言いたい。決めたら、一番最初に言う」
そう言ってセスナは、力のこもったキラキラした目で和馬を見つめた。約束すると言った、これは絶対に嘘ではないなとわかるセスナの言葉が和馬にそれ以上は何も言わせなかった。
だから和馬は、わかったと答えた。何を決めるつもりなのかはわからないけれど、セスナがそう言うなら黙って待とうと思った。
「じゃあ、くじ引きにするよ」
博隆は黒板消しを取って、『推薦』の文字を消した。そして、続けて『立候補者』の文字を消そうとした時、すっと手をあげた者がいた。
「私がやろう」
そう言って立ち上がったセスナに、和馬は目を丸くした。セスナは決して消極的なタイプではないが、だけどこんな時に自分から立候補するようなタイプでもないのだ。それに、セスナだって受験生だ。一分一秒を惜しんで、勉強しなければならないだろうに。
「飛鳥井さん、やってくれるかい?」
「ああ、やろう」
「よかった。じゃあもう一人、出来たら男子から出て欲しいんだけど」
そう言いながら教室を見回していた博隆の目が窓際の一番後ろ、つまり和馬のところで止まった。
「俺がやる」
仕方なく和馬が立ち上がると、博隆はやはり「よかった」と言った。
仲良く実行委員をやることになった公認カップルに誰かがピューッと細くひやかしの口笛を吹いて、それまで静まりかえっていた教室にどっと笑い声が満ちた。