171 さよならなんて言いたくない
「ふうちゃんは、高校を卒業したんだよね?」
「はい?」
読み終えた絵本を枕元に置くために無理な体勢で腕を伸ばしていた風太郎は、晴音のこの唐突な質問に思わず力いっぱい首をまわしてしまい、ぐきっと筋が鳴る嫌な音に顔を引きつらせた。
「ふうちゃん?」
首を押えて布団の上に突っ伏した風太郎を晴音が不思議そうに覗き込む。
どうかしたのと訊かれて風太郎は、何でもないですと笑った。明日は寝違えた時のように首が回らないかもしれないけれど、それはそれだ。今は、晴音を寝かしつけなければならない。
「何でしたっけ、高校?」
「そう、卒業したんだよね?」
「はい、去年……というか、この春に卒業しました。雪都さんも、来年卒業ですよね?」
「うん……」
「それが何か?」
枕に頭を乗せ、添い寝をしている風太郎の方に向かって横向きに寝ていた晴音が、もぞもぞと布団の中に潜り込んで行った。先っぽだけ出ているピンクベージュの髪に向かって風太郎が晴音ちゃーんと声をかけても、晴音は顔を出さない。
「卒業がどうかしましたか?」
晴音の形に盛り上がっている布団の上を軽くポンポンと叩いたら、さみしくなかった?とくぐもった声が聞こえた。
「高校を卒業して寂しいってことですか?そうですねぇ、やっぱり少し寂しかったかな。でも僕はその時、それより先のことばかり考えていたからそっちの方に気が向いていましたね」
「先?」
「はい、先です」
またもぞもぞと動いたかと思うと、晴音は目だけ出して風太郎を見た。鼻から下は、まだ布団の中だ。
「先って、何?」
「未来とか、将来とかですね。僕は大学には進まずに就職することが決まっていましたから、そちらの方が心配だったんです。だから卒業して悲しいと思うより、先のことばかり考えていました」
「しゅーしょく?」
「お仕事を始めることですよ」
「かせいふ?」
風太郎は苦笑いして、もう寝ましょうねと優しく言った。晴音は布団を引き上げて、また頭の上まで潜ってしまった。
「ね、ふうちゃん。どうしたら保育園を卒園しなくてよくなる?」
「晴音ちゃんは、保育園を卒園したくないんですか?」
「うん」
晴音のこの返事に、風太郎は考え込んでしまった。風太郎は、晴音は保育園を嫌いなのだと思っていたからだ。
朝、保育園に行こうと言うとぐずぐずとなかなか歩き出そうとしない。夕方、迎えに行くと飛んで出て来る。髪の色のせいで友達が出来ないのだということは、雪都から聞いていた。だから晴音は、保育園が嫌いなのだと思っていたのだ。
だけど、晴音は保育園を卒園したくないと言う。
しばらく考えて、風太郎はふと思いついた。
「晴音ちゃんは、小学校に行きたくないのですか?」
保育園で友達が出来ないのだったら、小学校でも出来ないだろう。それに、小学校は保育園より規模が大きい。いじめられたりするかもしれない。そう思いついて小学校に行きたくないのかと訊いてみた訳だがこれが大当たりだったようで、布団の中で晴音が大きくうなずいたのがわかった。
「うん、保育園がいい」
「そうか……でも、これはどうしようもないんですよ」
風太郎は、布団の上から晴音の背中のあたりをポンポンと叩いた。子供の頃、泣き虫だった風太郎を母はいつもこうしてあやしてくれた。
「時間はね、晴音ちゃん、どんなにお願いしても止まってくれません。僕だってずっと高校生だったら良かったのにと思うけど、そんなの無理なんです。晴音ちゃんも小学生になって、中学生になって、高校生になって、そしていつか大人になるんですよ」
ポンポンと、同じリズムで風太郎は優しく叩き続ける。晴音は聞いているのか、それとも眠ってしまったのか返事をしない。
「保育園にさよならするのは辛いけど、先に進むしかないんです。どんなに寂しくても進んで行けば、そこにきっと何かが待っていますよ」
風太郎がこうして晴音に出会えたように、自分の足で進んで行けば何かに出会える。その何かがいいことか悪いことか、それはわからない。それでも人は、前に進むしかない。
仕事に失敗し、何をやっても上手く行かなくて、部屋の隅で蹲っていた日々を経て来たからこそ風太郎はそう思う。
風太郎が永沢家と交わしている雇用契約は、来年の三月いっぱいまでとなっている。四月になれば、晴音は小学生だ。送り迎えの必要がなくなるし、子守もいらなくなるだろう。雪都だって無事に合格すれば、受験生でなくなる。つまり、この家に家政婦はいらなくなるということだ。
ようやく天職に巡り合えたと思ったけれど、もうすでに終わる時が見えている。果たして風太郎は、このまま家政婦の仕事を続けて行くべきなのだろうか?
男のやる仕事じゃないと、今でも母はことあるごとに愚痴をこぼす。仕事に男も女もないと風太郎は思うけれど、風太郎の倍以上も人生経験を積んだ母がいい顔をしないのだから、家政婦は女性がすべき仕事なのかもしれない。
では、どうしたらいいのだろうか?
また部屋の隅で蹲るのは嫌だと思う。あんな惨めな思いはもうしたくないし、歳老いた母に食べさせてもらうのも気が引ける。だけど、運よくどこかの会社に就職できたとしても、長続きしそうな気がしない。自分に合った仕事でなければ、やっていけないだろう。
誰かを助ける仕事をしたい、手助けを必要としている人を支える仕事。
ポンポンと布団のかたまりを叩きながら、風太郎は考える。未来が不安なのは、晴音より風太郎の方だ。
今はまだ、次の春より先には何も見えない。
濃い霧の彼方に煙っている。
やがて聞こえてきた小さな寝息に、風太郎は目を細めた。そして、眠る晴音に僕だってさよならなんて言いたくないですよと、囁くように呟いた。