170 大人の役割
何とかしてくださいよと叫んで寛治は、ビールの大ジョッキをドンッとテーブルに叩きつけるように置いた。呑み始めてからまだそれほど経っていないのに、やたらとハイピッチでビールを煽るように呑んだせいで寛治の目は据わっている。寛治の隣で大志が、やれやれとでも言うように軽く肩をすくめた。
「園長、あの問題児を何とかしてくださいって言ってんですよ!晴音め、あんの野郎、今日は登園するなり図書室に籠りやがって、何言っても出て来やしねえ」
「ほっとけつってるだろうが」
「ほっとけませんよ、俺の受け持ちっすよ!」
文字通り泡を飛ばして叫ぶ寛治の前に、おまちどうさんでしたとまだジュージューと音をたてている鶏の竜田揚げが置かれた。熱いうちにやってくださいと居酒屋七駒の従業員、鈴木龍が強面の顔でにやりと笑う。
「何だ、寛治。今日はえらく荒れてんな」
「龍さんも園長に何とか言ってくださいよ!」
寛治と龍は、同じ高校の出身だ。もっとも龍の方が寛治より八つも年上だから同時期に在学していた訳ではないが。
おひさま保育園からほど近いこの居酒屋に寛治が通うようになってからしばらくしたった頃に、何かの話しの流れで龍が先輩であることがわかった。それから寛治は、龍を龍さんと気安く呼び、慕うようになったのだ。
「何だ、何かあったのか?」
「何かあったのかじゃないですよ、園長に言ってやってくださいって。このままじゃ晴音、小学校に上がっても教室を抜け出しますよ。今のうちに、それは悪いことなんだと教えてやるのが俺らの務めじゃないんですかってね」
「晴音っつーのは、寛治が一番可愛がってる園児だったか?」
「ちがっ!龍さん、違いますって。俺は、一人の園児だけを特別に可愛がったりしねえ」
「でも寛治、あの子だけはいつも特別に目をかけてるじゃない?」
「大志、お前まで何をほざくんだよ。目をかけてるんじゃねえ、目を離さないようにしてるんだ。あんな問題児、目を離したら何をしでかすかわかったもんじゃねえからな!」
「はいはい」
「大志」
どんどんとテーブルを叩く寛治に龍は、呑んでばっかいねえで食えと竜田揚げの皿を寛治の前にずいっと押した。
俺が作ったんだ、食うよな?などと、強面で威嚇してみせる。どうしてこれが居酒屋の従業員なんだ、絶対に嘘だろうと疑いたくなる迫力に寛治は、思わず割り箸を取った。揚げたての竜田揚げを大人しく食べだした寛治に満足げに頷いてから龍は、寛治が騒いでいることなどどこ吹く風で静かに呑んでいる健の隣に腰をおろした。
「で、その晴音って子は問題児なんで?」
手酌で呑んでいた健のとっくりを取り、酌をしながら龍はそう訊いた。健はニヤリと笑うと、うちの園に問題児なんて一人もいねえよと低い声で答えた。
この店は、沢浪駅のすぐ傍ということで仕事帰りの沢浪北高校の教師たちやおひさま保育園の保育士たちがよく来てくれる。特に園長の健、それに寛治と大志のコンビは毎晩のように顔を出す常連なのだ。
それだけ来れば、彼らの話は聞こうと思わなくても龍の耳に入って来る。彼らの話にはたくさんの園児たちの名前が出て来るが、その中でも頻繁に登場するのが『元気』と『晴音』だ。
特に晴音の方は、その名を聞かない夜の方が少ないくらいで、龍は会ったこともない晴音をすっかり顔見知りのような気がしていた。
「けど、教室を抜け出すんでしょう?」
「あいつは、型にはまるのが苦手なだけだよ。そんなのは問題児とは言わねえ、自由奔放なだけだ」
「成程ね」
おとなしく型にはまれない子供に問題ありと烙印を押すのが今の世の中だろうに、健は違うらしい。龍は、健の猪口にまた酒を注いだ。
「じゃあ、心配はいらないと?」
「いらねえな。あいつは、いい家族に恵まれて幸せに育っている。今はガキだからあちこち力が足りなくて突っ走るしか出来ねえが、あいつが本当に道を逸れたら親なり兄貴なりがひっ捕まえて方向修正するさ。そうこうしてるうちに、晴音自身が自分の道をてめえで見つけんだろ。心配ねえ、あいつは成長しようともがいてる最中だ。コドモが頑張ってんだから、オトナは腹据えて見守るしかねえ」
「だとよ、わかったか寛治?」
竜田揚げを口にくわえたまま睨む寛治に、龍はゲラゲラと笑った。お前も晴音と一緒に成長しろと、とどめを刺してから立ち上がる。
ガラリと開いた扉の方にらっしゃいと威勢のいい声をかけて奥に消えて行く龍の背中を、寛治はまだ竜田揚げをくわえたままで恨めしそうに見送った。