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school days  作者: まりり
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169 昇降口ですれ違った君は


 わかってる、週末には帰るからと言って優介は、受話器を置いた。その途端にふうっと、どうしても溜息が口をついて出てくる。優介は、電話を取り次いでくれた一年生担当の若い女の教師に会釈してから自分の席に戻った。

 机の上に広げているのは、去年の各大学の入試問題集だ。これを元にプリントを作ろうとしていたところだったが、さあ始めようと思ったところに電話がかかって来たのだ。


 電話は、叔父からだった。母のすぐ下の弟だ。

 優介の携帯番号を知らない叔父が、優介の勤め先にかけてきたのだ。


 『優ちゃん、忙しいのはわかるけど何とかならんか。お母さん、優ちゃんのことばっかり言うとおよ。検査で辛いやろうに、優介、優介言うてるわ。なあ、優ちゃん。今、親孝行せんで、いつするつもりなんや?な、後から後悔するで。悪いことは言わん、もっとお母さんを大切にし』


 柔らかな故郷の訛りで叔父は、小さな子供に言い聞かせるように静かに優介を諭した。優しい言葉の裏で、母が倒れたのにすぐに駆けつけなかった薄情な一人息子をやんわりと責めたのだ。

 一昨日、家で母が倒れていたのをたまたま作り過ぎたおかずのおすそわけに来た隣の主婦が発見した。すぐに救急車が呼ばれ、母は病院に搬送された。幸いなことに母の意識は救急車の中で戻り、病院に着くと医者の質問に自分ではっきりと答えたらしい。


 「俺のことばかり、か」


 優介の独り言が耳に入ったのか、向いの席で来栖涼華が顔をあげた。何でもないですと言う代わりに笑って見せておいてから優介は、ノートの間に挟んであったシャーペンを握った。


 優介に知らせが来たのは、母が倒れたその日の夜のことだった。優介は、前に帰郷した際に隣の主婦に自分の連絡先を書いた紙を渡して、申し訳ないけれど母の様子を気にかけて欲しいということを頼んでいた。母とはもう数十年来の付き合いになる気のいい主婦は、まかせておきなさいと心安く引き受けてくれた。

 その約束通りに主婦がしょっちゅう母の様子を見に行ってくれていたおかげで、今度も大事には至らなかったのだ。


 救急車に同乗して病院まで付き添ってくれた主婦は、母に頼まれて入院準備をしに一旦家に戻り、その時に優介に知らせようとしてくれたらしい。だが、優介が渡した連絡先のメモをどこにしまったのかすぐに見つからなかったのだそうだ。そのために結局、優介に連絡が来たのはその日の夜、結構遅い時間になってからだった。連絡が遅くなってしまったことを主婦はしきりと謝ってくれたが、優介は電話口で相手に見えないのを承知で、本当にありがとうございましたと頭をさげた。


 知らせを受けてすぐに夜行バスに飛び乗らなかったのは、大丈夫だと言われたからだ。優介が子供の頃から 『隣のおばさん』と呼んでいるその主婦は、お母さんは元気そうだったから心配いらんよと明るい調子で言った。それに、そのあとすぐに当の母から電話が来た。ちょっと検査入院することになったけど心配いらんからと、これもやたらと明るく言われた。


 だから帰らなかった、と言えば言い訳になるのだろうか?

 少なくとも優介に代わって医者から詳しい説明を受けた叔父は、息子ならばすぐに帰って来て当然だと思っているようだが。


 癌が移転した可能性がある、精密検査が必要だと医者は言ったらしい。


 電話で叔父からそう聞いた時、これは駄目だなと優介は思った。直勘とか、そんな類のものではない。ずっと以前から知っていたことにやっと気づいた、そんな感じだった。


 もう母は助からないだろう、叔父の説教を聞きながら優介は確信していた。


 あと、どれくらいの時間が残されているのだろうか。

 女手一つで優介を育てあげてくれた母に、あとどれくらいの命が残されているのだろう。


 親孝行しろと、叔父は言った。そんなこと、言われなくてもわかっている。優介だって母を大事に思っている、今までだってそれなりに大切にしてきたつもりだ。


 大学からずっと離れて暮らしているけれど、母の日にはカーネーションの花束を送る。誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも欠かしたことは一度もない。盆と正月には必ず帰る、電話もこまめに入れるようにしている。


 自分で言うのも何だが、いい息子なのではないかと思う。固い職業につき、真面目に勤めている。これ以上、何をどうすればいいと言うのだろう?


 早く結婚して、私が生きているうちに孫の顔を見せておくれ。


 ここ最近、耳にタコが出来るほど繰り返し言われた言葉がありありと蘇る。

 母から送られて来た見合い写真は、まとめてダンボール箱に入れて押入れに放り込んでしまった。まともに見たのは、一枚もない。見合いなんて、端からする気がなかった。いや、優介にはそもそも、結婚する気があまりないのだ。

 今までに、恋人と呼べる存在は何人かいた。大学進学のために上京してから現在に至るまでに優介は、何人かの女性とつき合ったことはある。


 だけど、結婚したいとまで思った女は一人もいない。


 それどころか女というものは誰でも、しばらくつき合うと煩わしくて堪らなる。最初の頃は素直に優介の言うことを聞くのに、仲が深まるにつれて我儘になり、色々なものを要求してくるようになるのだ。

 欲しがるのが物ならまだいい。アクセサリーやバックで満足するならそれでいいのだが、大半の女は愛とか、そんな不確かなものをやたらと欲しがる。


 私が好き、ねえ愛してる?


 そう訊かれる度に、優介はうんざりした。女なんて面倒なばかりだ、優介の人生に必要なものだとはどうして思えない。

 だけど母は……優介を女手一つで育てあげてくれた母は、残り少ない命の火をじりじりと燃やしながら優介が結婚して、家庭を築くのを待っている。

 それが母の最期の望みならば叶えてやりたいと、優介は思う。優介だって、母を大切に思っているのだから。


 今から見合いをしたとしたら、それで間に合うだろうか。すぐに話がまとまれば、もしかしたら可能かもしれない。孫の顔を見せてやれるかどうかはわからないが、あるいはそれも間に合うかもしれない。だけどそれは、話がすぐにまとまれば、だ。


 果たして見合いで、優介の気に入る相手が見つかるだろうか。


 素直でおとなしい女がいい。決して我儘を言わず、優介の言うことに黙って従うような女。

 年上は駄目だ、絶対に年下がいい。見た目にはあまりこだわらないが、可愛いに越したことはない。果たしてそんな都合のいい女が、すぐに見つかるだろうか?


 「松本先生、先生のクラスの中森くん、元気がないことないですか?」


 いきなりそう訊くと、涼華は驚いた風もなく優介の正面で顔をあげた。そして、やっぱりそう思われますかと眉根を寄せる。


 「中森だけじゃないんですよ、阿部とか永沢とか、何となく様子がおかしいんです」

 「阿部くんと……永沢くんもですか?」

 「そうなんです、大切な時期だというのに」


 あれは何時間目だったろうか、授業の後で質問を受けていて遅くなった優介が慌てて職員室に戻ろうとしていた時、一階の昇降口のところで彼女とすれ違った。


 中森美雨。

 去年、一昨年と優介が担任した生徒で、夏休みの終わり頃に好きだと告白してきた少女だ。


 体育だったのか、ジャージを着ていた。あと数分で次の授業が始まるという時間だったから焦っていたのだろうか、それともたくさんの人であたりがごった返していたせいだろうか、美雨は優介に気づかずに小走りに階段を上って行った。


 美雨の姿が見えなくなった階段を見上げて、優介の心の中には何かもやもやとしたものが残った。

 気付かれなかったことが気にいらなかったのだろうか、優介自身にもわからなかった。ただ、何故だかあの時の光景が頭の中に浮かんだ。


 夏休みの終わり頃、生徒たちのいないがらんとした学校を出て車を停めている駐車場に向かっている途中で優介は、傘もささずに小雨の中に一人佇んでいた彼女を見つけた。

 ずぶ濡れだった、何かあったのかと焦った。

 だけど、慌てて駆け寄った優介に美雨は好きですと叫んだ。それは、何かを吐き出すような告白だった。


 これまで十年近くになる教師生活の中で優介は、何度か女生徒から告白された。

 もちろん優介には、教え子を相手にする気はない。だけど中には本気で思いつめている娘もいて、優介に断られたショックで自殺未遂を起こしたことがある。それ以来、優介は自分に好意を寄せているだろう生徒には特に気をつけて接するようになった。


 優介に好きだと言った時の美雨は、ひどく思いつめた顔をしていた。だから、断る言葉は使わなかった。ありがとう、嬉しいよと傷つけないように笑って見せた。


 「永沢くんは……」

 「はい?」

 「いえ、何でもありません」


 『永沢くんは、中森くんを好きなんですか?』、そう訊こうとした言葉を優介は飲み込んだ。訝しげに首を傾げた涼華に、本当に何でもないんですと笑って誤魔化す。全く、自分は何を訊こうとしているのか。


 告白したなり泣きやまない美雨を優介は、とりあえず自分の車に乗せて家まで送った。彼女の家は近く、車の中で二人きりだったのはほんの数分だった。風邪をひかないようにと貸した優介の上着に包まれて美雨は、ひどく儚げに見えた。


 生徒から告白されたのは、一度や二度ではない。軽い気持ちで軽く告白してくる娘もいれば、自殺未遂をおこした娘のようにこちらがうろたえてしまうほど真剣な娘もいる。

 美雨は決して、軽い気持ちで好きだなんて言ったようには見えなかった。だけど、何かが違う気がした。


 角を曲がって、前方に彼女の家が見えた時、その前に誰かが立っていることにはすぐに気づいた。それがA組の生徒、永沢雪都だということがわかったのは車を止めてからだったが。


 雪都は何か、バスケットのような物を美雨に渡していた。そして、そのまま一言も口をきかずに帰って行った。

 優介は車を降り、彼女の叔父だという男に自分は美雨が通っている学校の教師で、彼女が雨の中を傘もささずにずぶ濡れになっていたので送って来たのだと説明した。

 お茶を入れますからあがってくださいと言われて、そのままあがったのはどうしてだろうか。優介はいつも、こんな風にお茶に誘われても断ることにしているのに。


 「あの連中は図太いと思ってたんですけど、やはり受験でナーバスになっているんでしょうか」

 「……は?」

 「阿部たちですよ。あと、姫宮の様子もおかしいんですよね。飛鳥井は、こんな時期になって進路調査を白紙で出すし、何を考えているんでしょうねぇ」


 本気で心配しているのだろう、涼華はうーんと唸って頭を抱えた。そんな涼華に優介は、彼らなら大丈夫ですよと根拠のない慰めを言った。

 他の生徒のことは知らないが、中森美雨と永沢雪都の様子がおかしい理由なら優介には心当たりがある。そう言えば七夕祭りも二人で来ていたなと、そんなことを今更ながらに思い出したりもした。


 「姫宮というのは、確か永沢くんとつき合っている女生徒ですよね?」

 「そうです、姫宮希羅梨。まあ、姫宮の場合はちょっと元気がないかなという程度なんですけどね。普段が明るい娘だけに、塞いでると目立っちゃって」


 それは多分、受験ではなくて恋愛問題で悩んでいるんですよとは言わない。言えば、どうしてそんなことを知っているか説明しなくてはならないからだ。


 「まあ、そんなに心配することないと思いますよ。永沢くんと阿部くん、それに飛鳥井くんと姫宮くん、でしたっけ?彼らはしっかりしていますよ、何かに悩んでるとしても自分で答えを出すでしょう。大丈夫です、我々は黙って見守る側に回りましょう」

 「わかってるんです、教師がしゃしゃり出る場面じゃないことは。だけどね、つい気を揉んじゃうんですよ」

 「わかります、でもここはぐっと我慢ですよ。高校三年生といえば、ひどくプライドの高い年頃だ。教師如きが下手に手を出すべきではありませんよ、僕らの助けが必要になるまでは静観するしかありません」


 そうですよねぇと、涼華はがっくりと肩を落とした。優介がわざと美雨の名前を外したことには、まったく気づいていないらしい。いい教師だなと思いながら優介は、こめかみのあたりをトントンと軽く叩いている涼華を見ていた。


 生徒の僅かな異変にいち早く気づき、純粋に心配している。本当にいい先生だ、優介と違って。


 昇降口ですれ違った時、美雨は優介に気づかなかった。

 そのことが、何故かやたらと気になった。


 一年生の時から優介に一途な視線を送り続けて来た少女が自分に気づかないなんて、そんなことある筈ないと優介は思った。




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