16 訊きたいことがあるんだけど
図書館からの帰り道、美雨はぼんやりと歩いていた。車の多い大通りをふらふらと横切って静かな住宅街に入っても、やはり美雨の足取りは頼りない。よく知っている道だからよかったが、これが慣れない場所だったら絶対に迷っていただろう。それほど、美雨はぼんやりと歩いていたのだ。
近所に住んでいるクラスメートの男の子と偶然会っただけだ、何もそんなに特別なことではない。しかも二人きりになった訳でもなく、雪都は妹を連れていたのだから何もなかった、本当に何もなかったのに。
児童書コーナーではほとんどまともな会話を交わすこともなく、帰りがけにもう一度顔を合わせた時にもたいしたことは話していない。ピンクベージュの髪の女の子はやっぱり雪都の妹で、名前は晴音で、今はおひさま保育園に通ってるということを雪都は教えてくれただけだ。
おひさま保育園というのは、かつて雪都と美雨が通っていた保育園だ。おじいさん園長は引退して、今はその孫息子が継いでいるということも教えてくれたが、雪都と美雨が在園中も時々手伝いに来ていたその孫息子のことを美雨は、何かとてつもなく大きな人だったとしか覚えていなかった。
それだけのことだ、本当に特別な出来事ではない。
幼い頃よく一緒に遊んだ男の子と久しぶりに話をした。
それもほんの少しだけ、それだけだ。
だけど、美雨はぼんやりと歩いていた。
春風は暖かく、美雨が羽織っている薄手のカーディガンをはためかせていた。歩いているとちょっと暑いのだけれど、カーディガンの下には半袖を着ているので脱いだら寒い。長袖を着てくればよかったなんて、そんなどうでもことをぼんやりと考えながら緩い坂を登っていた美雨は、前方から見覚えのある長い髪の少女が歩いて来るのに気づいて思わず足を止めた。
「あれぇ、中森さんだ」
まるで、夢の底から一掴みで引き上げられたみたいな気がした。瞬く間に美雨の頭の中の靄が晴れる。
ソブラノの可愛らしい声をはりあげて、坂の天辺で希羅梨が大きく手を振っていた。美雨が何の返事も返せずにいる間に、軽い足取りで駆けて来る。
「そっか、中森さんのおうちってこの辺なんだ?」
「あ、えっと……もうちょっと先」
「そうなんだ。この辺だったら、学校近くていいよね」
晴音の笑顔が花のようなら、希羅梨の笑顔は光のようだと思う。希羅梨は目を細めてとろけるように笑う、なんて可愛い人なんだろうと美雨は軽く目を瞠った。
同じクラスになってまだ数日しかたっていないせいもあって美雨は、この時はじめて希羅梨と言葉を交わした。どちらかというと人見知りしてしまうタイプの美雨に対して、希羅梨は屈託がまったくなかった。まるで何年も一緒に過した友達に話し掛けるのと同じ笑顔を美雨に向けてくれる。
「……えっと、姫宮さんのおうちもこの辺りなの?」
「ううん、うちは夕日町の方。雪都君のとこに来たんだけどね、居なかったんだ」
希羅梨の口から雪都の名前が出た途端、何故か美雨は固まってしまった。急に鼓動が速くなる。どうしたことだろう、ついさっき雪都と会って、続けてその彼女に会ってしまうなんて偶然が過ぎる。
べ、別に後ろめたいことはないよね、うん。
そうだ、何も後ろめたいことはない。隠すようなことでもない。
さっき図書館で永沢君に会ったんだよ、そう言おうと美雨は思った。そう思ったのに、何故か言葉は出て来なかった。
「晴音ちゃんとどっか行っちゃったかなぁ」
図書館で会ったよ、そう言うべきだ。
雪都は美雨と一緒に図書館を出たけれど、スーパーに寄って帰ると言っていた。だったら、まだスーパーにいるだろう。図書館を出て、国道の方に三分ほど歩いたところにある小さなスーパーの場所を希羅梨に教えて、行ってみたらと美雨は言うべきなのだ。
「約束なしでいきなり来ちゃったから、仕方ないよね」
あははと明るく笑う希羅梨の、長い髪が風に揺れる。きれいな髪だなと、美雨は希羅梨の揺れる髪を見つめた。自分の、多すぎておだんごにまとめるしかない髪とは雲泥の差だ。艶やかな黒髪を長く伸ばした、明るい薄茶色の髪の隣に立つのにふさわしいきれいな女の子。
「姫宮さん、あのね」
永沢君ならきっとスーパーにいるよ、そう美雨が言おうとした時、希羅梨は急に辺りをキョロキョロッと素早く見渡すと、口に手をあてて美雨に顔を近づけて来た。
「ところで、中森さん」
「え、何?」
声をひそめる希羅梨につられて、美雨も声の大きさを落とした。両側に住宅の並ぶ往来で、二人の話を立ち聞きしているような人は誰もいないのに。
「訊きたいことがあるんだけど」
「え?」
耳元で小さく囁かれる希羅梨の声は真剣そのもので、美雨はすっと背筋が寒くなった気がした。図書館で雪都と会ったことがバレた、筈はない。もしバレたとしても、何も後ろめたいことなどない。ない筈なのに、美雨は緊張した。鼓動がまた速くなる。
「あのね、中森さん」
春の日差しは暖かく、坂道の途中で内緒話をしている二人の少女にふんだんに降り注いでいた。美雨は、ゴクリと唾を飲み込んだ。背中がゾクゾクする、日差しはこんなの暖かいのに。
「中森さんて、志望校どこ?」
思いがけない言葉が美雨の緊張していた耳に飛び込んで来た。思わず美雨は、希羅梨の顔をまじまじと見てしまった。希羅梨はふざけている様子はなく、やっぱり真剣そのものな目をしている。
「……志望校?」
そう訊くと、希羅梨は頷く。
「大学?」
重ねて訊くと、希羅梨はやっぱり頷く。
明条大だけど、と美雨が言うと、その途端に希羅梨はパアッと笑った。
「明条大?ほんっとーに、明条大?うわぁ、やったぁ!あ、何学部?」
「……教育学部」
「教育学部かぁ。まあ、学部まで一緒って訳にはいかないよね。うん、でも同じ大学だ。よかったよかった」
何故か手を叩いて踊りださんばかりに喜んでいる希羅梨を、美雨は呆然と眺めていた。美雨の志望校が明条大なことが、どうしてそんなに嬉しいのだろう?同じ大学と言っているが、希羅梨と同じ大学ということだろうか。
美雨と希羅梨は、つい先ほど初めて喋ったような仲だ。希羅梨は美少女で有名だったから美雨は一年生の頃から知っていたけれど、目立たない美雨を希羅梨が知っていたということはないだろう。
そんなただのクラスメート、しかも同じクラスになったばかりでまだほとんど交流もない美雨と同じ大学志望だということが、何故にそんなに嬉しいのか。
「あの、姫宮さん?」
「あ、呼び止めちゃってごめんね。じゃあ、また学校でね!」
「……」
希羅梨は美雨の手を掴むと上下にブンブンと振ってから、すぐに放して走り出した。またねー!と手を振りながら、ゆるい坂を駆け下りて行く。
美雨は呆然と希羅梨の背中を見送った。希羅梨の長いきれいな髪が、希羅梨の弾むような歩調に合わせて揺れていた。