168 恋心
はい、次はこれねと指差された問題を見て、美雨の頭の中には鮮やかに夏空が広がった。それは夏休みに、図書館の一番奥のあの席で彼が教えてくれたのと同じ問題だったのだ。数学が苦手な美雨にわかるように丁寧にゆっくりと、根気強く教えてくれた。
「あれ、わからないかな?」
「いえ……大丈夫です」
そう言って美雨は、顔をあげて笑って見せた。わからなかったら説明するから言ってねと、家庭教師のアルビナもにっこりと笑い返してくれた。
大丈夫、まだ憶えている。
問題の解き方も、説明してくれた彼の声も。シャーペンを握っていた指先も、伏せた睫毛の奥の瞳の色も。
憶えてる、忘れない。絶対に忘れるもんか。
ゆっくりと、でも確実に、美雨は問題を解いてゆく。ここでこの数値をXに代入すんだよと、彼は言った。だから、Xに代入する。すると、ちゃんと答えは出る。
「そうそう、正解。じゃあ、次はこれね」
「はい」
数学はいい、決まったルール通りに解いていけば必ずたった一つの答えが出るのだから。こんなに簡単で、こんなにわかりやすいものはない。
恋も、こんな風に簡単に答えが出たらいいのに。
美雨はずっと、一人の人を想い続けて来た。阿久津優介、美雨の憧れの先生だ。
今でも憧れる気持ちに変わりはない。好きだと思う、本当に心から尊敬している。だけど阿久津を想う心を裏返せば、ひょっこりと彼への想いが顔を出す。
優しくて頼りになる、大好きな幼馴染。
もう小さい頃のように雪くんなんて気安く呼ぶことは出来ないけれど、それでも永沢くんと呼べばいつだって振り向いてくれる、手を差し伸べてくれる。
あの手を欲しいと、思ってしまった。
彼には彼女がいるのに、美雨はただの幼馴染なのに。
今日、体育の授業の後で、後片づけを言いつけられたらしい彼を彼女が手伝っていた。二人仲良くボールを運んでいる後ろ姿はあまりにお似合いで、美雨の胸はずきずきと痛んだ。
夏には毎日一緒にいられたのに、彼の傍にいたのは間違いなく美雨だったのに、もう今はこんなにも遠い。
わかってる、こんなのは間違っている。
美雨が好きなのは阿久津先生で、幼馴染の彼ではない。
だから、阿久津に好きだと告げた。あの時は勢いだったけれど、後から考えても正しいことをしたと思う。
阿久津は、ありがとうと言ってくれた。嬉しいよと、そう言ってくれた。それ以上の答えは貰えなかったけれど、それは仕方ないだろう。教師と生徒なのだから、答えてもらえなくて当たり前だ。
ずっと憧れていた人に好きだとやっと言えたのに、だけど美雨の心に浮かんで来るのは幼馴染の彼ばかりで。違うから、絶対に違うからと何度も否定してみるけれど、だけど彼が彼女と一緒にいるのを見るたびに胸が痛くなってしまう。
それは、心臓が潰れてしまうんじゃないかと思うほどの痛みだった。
ふと気付くと、問題を解いていた手をいつの間にか美雨は止めていた。アルビナが、心配そうに覗き込んでいる。
「ちょっと疲れちゃったかな、休憩にする?」
「大丈夫、平気です」
「美雨ちゃんて、大丈夫が口癖かな?頑張り屋さんだね、でもちょっと休憩にしましょう」
アルビナの柔らかなアルトの声に、美雨は肩に入っていた力を抜いた。父が探してくれた家庭教師の先生が日本人ではなかったことには驚いたけれど、美雨はすぐにアルビナを好きになった。美雨は一人っ子だけど、もしもお姉ちゃんがいたらこんな感じかなと思う。アルビナはとても流暢な日本語で、ふんわりと心に染み込んで来るような不思議なトーンで喋る。
「じゃあ、虎二郎おじちゃんにお茶をお願いして来ますね」
「あら、私が行くわ」
「アルビナ先生が急に降りて行ったら虎二郎おじちゃん、腰を抜かしちゃうかもしれないから」
ふふふっと悪戯っぽく笑って美雨は立ち上がり、軽い足取りで部屋を出た。階段をとんとんと降りて行くと、その足音が聞こえたのか虎二郎がキッチンから顔を出した。
「虎二郎おじちゃん、お茶をお願い」
「おう」
夏休みが終わるのを待たずにまた旅に出てしまうだろうと思っていた虎二郎が、二学期が始まってもまだ旅立たないどころか、父と母の会社『polka dots』を手伝うと言い出した。それはもちろん美雨には嬉しいことなのだが、だけど何故と思ってしまうのも仕方ないことだろう。
虎二郎はバイクとカメラ、そして旅が本当に好きなのだ。
あいつは一生このまま世界中を彷徨うかもなというのは父が言ったことだが、美雨もそうかもしれないと思っていた。
一所に留まるには、虎二郎の気性はおおらかに過ぎる。そんな虎二郎がもう旅に出ないと言うのだから、これは驚くなと言う方が無理だろう。
どうして、どこか具合が悪いのと、美雨は真っ青になって虎二郎に問いただした。もしかしたらとんでもない病魔が叔父を蝕んでいるのかと思ったのだ。
だけど虎二郎はなぜか赤い顔で何でもない、ただ兄貴が忙しそうだから手伝うことにしただけだと答えた。なぜ顔が赤かったのかは、その数日後にわかった。
家庭教師の先生を連れて行くから出かけないで家にいなさいと父に言われていた日、いつもはだらりと首が伸びたTシャツばかり着ている虎二郎がいつになくぱりっとアイロンのきいたシャツを着て、散髪したての髪にはきっちりと櫛が入っていた。その上、来客用のティーセットを出してスプーンを磨きながら、明らかにそわそわしている。
どうかしたのと美雨がいくら訊いても、返って来る答えは「どうもしない」ばかりだ。そして、約束していた時間より十分ほど遅れて玄関のドアが開いた時、虎二郎のそわそわはピークに達した。
「こちらが美雨の家庭教師をしてくださる、アルビナ・ロペスさんだ。で、これがうちの娘です。こら美雨、ちゃんとご挨拶しなさい」
家庭教師が女性だということは、面接の時に偶然居合せたという虎二郎から聞いていたが、日本人でないとは聞いていなかった。父が連れてきた翠の瞳のきれいな人をぽかんと口を開けて見ていた美雨は、草一郎に叱られて慌ててよろしくお願いしますと頭をさげた。
とりあえず居間に案内して、草一郎と美雨、それにアルビナがソファーに納まるとすぐにガシャガシャと陶器がぶつかり合う音を立てながら虎二郎がお茶を運んできた。
虎二郎は旅が長いせいか、その見た目に似合わず洗濯だろうが掃除だろうが何でも器用にこなす。特に料理は上手くて、美雨がリクエストすればお菓子だって作ってくれる。
今日も朝からキッチンで何か作っているなと思っていたら、どうやらケーキを焼いていたらしい。どうぞと置かれた色鮮やかなフルーツがたっぷりのったタルトに美雨はきゃーと歓声をあげようとして、家庭教師の先生の前だったことを思い出して咄嗟に声を飲み込んだ。
「きゃー、美味しそう!」
だから、リビングに響いた弾むような声は美雨のものではなかった。アルビナは、お皿の上のフルーツタルトにきゃーきゃーと子供のように喜んだ。
見た感じはしっかりと落ち着いた大人の女性に見えるのに、ケーキに歓声をあげるなんてもしかしたら無邪気な人なのかもと、そう思った途端に美雨は嬉しくなった。
「これ、虎二郎おじちゃんが作ったんですよ」
「ええ、本当に?」
アルビナが満面の笑みを浮かべて虎二郎を見ると、虎二郎はカチンと音が聞こえそうなくらいに固まった。そして、見る見る赤くなっていく。ぽんっと、頭のてっぺんから湯気が出たのを美雨は見た気さえした。
こんなにわかりやすい奴も珍しいよなと、これはアルビナが帰った後で大笑いしながら草一郎が言った言葉だ。虎二郎のあからさまな反応はあの場にいた全員、もちろんアルビナにも丸わかりだった訳だ。
アルビナは、車で送りましょうという草一郎の申し出を断って一人で帰って行った。玄関で、それでは来週から来ますと頭を下げた時、顔がかなり赤くなっていた。
美雨は楽しみに待ってますと言って、手を振って見送った。なんだか嬉しかった、このところずっと沈んでいた心がほこほこしてるのを感じた。
「しかし、彼女はあんな美人だからな。虎二郎、お前みたいな根なし草じゃ相手にしてもらえないな」
「だから、兄貴の会社を手伝ってやるつってるだろうが」
「雇ってください、だろうが。俺は、社長様だぞ」
何が社長様だよと虎二郎が睨んでも、草一郎は笑うばかりだった。美雨も一緒に笑った、そして頑張れと虎二郎の腕を取った。
頑張れ、虎二郎おじちゃん。頑張れ。
何度も何度も、美雨は繰り返して言った。
本当に頑張って欲しいと思った。
真っ直ぐな虎二郎が、美雨は羨ましかった。恋心とは、こんな純粋な想いのことを言うのだろう。美雨のように、憧れの人がいるのに別の人が気になるような、そんなのは恋心と呼んではいけないのだろう。
「あ、今日はオレンジケーキだ」
「それと、オレンジティーな。ほれ、持ってけ」
「虎二郎おじちゃんが持って来てよ」
「持てるだろうが、これくらい」
「持てない、こんな重いの絶対に持てない」
虎二郎がギロリと睨んだが、美雨はにっこりと笑い返した。
フルーツタルトにアルビナが大喜びしたせいか、アルビナが家庭教師に来る日には必ず虎二郎はケーキを焼く。だけど虎二郎は、来週から『polka dots』で働きはじめることになっているから、それも今日までのことになるだろうが。
「ほらぁ、早く持って来てよね。アル先生、虎二郎おじちゃんのケーキを楽しみにしてるんだから」
早く早くと虎二郎を急かして、美雨は笑った。本当は泣きたいのを堪えて笑った。
体育の後、仲良く後片づけをしていた二人の後姿が瞼に焼きついてどうしても消えてくれない。
こんなのは嫌だ、虎二郎のようなきれいな恋をしたい。ただ一人の人を真っ直ぐに想って、そしていつか幸せになりたい。
「ほら、早く!」
美雨は笑った、泣きたいのを堪えて一生懸命に笑った。