167 荒れた道でも歩ける
携帯を耳から離してセスナは、ふうっと短く息を吐き出した。
気落ちするようなことではないと思うのだけれど、どうしても落ち込んでしまう。焦っても仕方ない、そんなことはわかっている。だけど、つい溜息は漏れてしまうのだ。
「よし、帰ろう」
そんな掛け声を自分にかけてやらないと、足が動きださないほどに。
空の低いところでうっすらと薄紫にたなびく雲で目を楽しませることもなくセスナは、ざかざかと大股で歩きだした。
中森草一郎からの電話を待つために図書室にこもっていたので、すっかり遅くなってしまった。義兄がまだ帰っていなければいいのだけどと思いながらセスナは、早足でバス停に向かう。
柊也は飛鳥井財閥の総裁として忙しい立場にあるが、取引相手との会食でもない限りは夕食を家で取る。あまり外食を好まないのだ。
角を曲がったところで、セスナの目の前をバスが走り抜けて行った。そしてウィンカーを出して、三十メートルほど先のバス停にゆっくりと停車しようとしている。行先の表示を見ると、セスナが乗るバスだ。
胸に抱えていた鞄を右手に持ち替えて、セスナは走り出した。腰の曲がった老婆が段差の大きいステップをなかなか登れずにいたおかげでなんとか間に合った。セスナは老婆に手を貸して、一緒にバスに乗り込んだ。
老婆が一番後ろの席に腰かけるのまで手伝ってからセスナは、前の方に空席を見つけて揺れる車内を行儀よく並んだ吊革を順々に掴みながら移動した。沢浪北高校の生徒で朝と夕方はかなり混むバスなのだが、下校時間すれすれに出てきただけにさすがにもうすいている。
難なく座席を確保したセスナは、座った拍子にスカートのポケットに携帯を入れっぱなしだったのを思い出した。草一郎からの電話を待っていたので、マナーモードにして振動がわかるようにポケットに入れたのだった。
最近の携帯電話は軽くて小さいが、それでもスカートのポケットに入れているとごつごつと足に当たるのがセスナは嫌いだった。もう用は済んだから、鞄に戻していいだろう。
セスナが携帯をポケットから出してから鞄を開けようとしたその時、ちょうどタイミングよく携帯が震え出した。
二つ折の携帯を開けてみると、発信者は怜士だった。バスの中で喋るのは、マナー違反だろう。セスナは、後でかけ直すとだけ言って一方的に電話を切った。怜士が一言も喋らない前にだ。そして、携帯を鞄の中に放り込む。
もちろん、ちゃんと後でかけ直すつもりではいるけれど、気乗りがしないのも確かだ。また駄目だった、と言うのは気が重い。セスナが悪い訳ではないけれど、ついゴメンと謝ってしまいそうだ。
夏休みをほとんど潰して縫いあげたドレスを憧れのデザイナーに見て欲しくて、そして弟子にしてくださいと頼みたくてセスナは、『polka dots』の本店に電話をした。だけど電話に出た草一郎によると『polka dots』は今、やたらと忙しいらしくて、もしかしたら駄目かもしれないよとの条件付きで先週の火曜日の夕方に会う約束をもらった。
結果から言うと、会えなかった。学校を出て、小堀町に向かおうと歩き出し、前方に駅が見えて来たあたりで草一郎から電話が入った。業者との打ち合わせが長引いたから申し訳ないと断られたのだ。
それから草一郎と栄は一緒に海外に出張に出るとのことで、一週間以上もセスナは動けないでいた。さあ、走りだすぞと身構えていただけに、これは肩透かしもいいところだ。だけど、こちらの都合で勝手なことは言えない。だから、大人しく待つしかなかった。
そして、草一郎と栄の帰国予定が今日の午後だったのだ。帰国したらすぐに電話するからという草一郎の言葉にセスナは、今日の昼休みに携帯をマナーモードにしてスカートのポケットに入れたという訳だ。
帰国は今日の午後というのは聞いたけれど、具体的に何時になるかまでは訊かなかった。草一郎にだって細かい時間はわからなかったのだろう。だからセスナは、昼休みからずっと緊張して待った。授業中にかかって来たらどうしようと思っていたがそんなことはなく、放課後になっても電話はかかって来なかった。
家で電話を受けるのは、なんとなく嫌だった。だからセスナは、学校の図書室で待つことにした。一応、参考書とノートを広げていたけれど、文字通り広げていただけだった。参考書の内容なんて、頭に入る筈がない。だけど結局、下校時間まで図書室で粘ったけれどかかって来なくて、仕方ないから帰ろうと校門をくぐったところで携帯が震え出したのだ。
連絡が遅くなって申し訳ないと、草一郎はまず最初に謝ってくれた。仕事が忙しいのに、セスナのことを覚えてくれているだけでもありがたいことだろう。だけどセスナは、気が焦っていた。栄にドレスを見てもらって、弟子にするという約束を取り付けてから兄に話すつもりでいた。そしてそれから、学校にも進路の変更を報告しなければならない。
自分ではわからなかったけれど、早急に栄殿にお会いすることはできないだろうかと言ったセスナの声はどうやら上ずっていたらしい。何かあったのと、草一郎は静かに訊いた。弟子にして欲しいのだと、『polka dots』の一員になりたいのだと喉元まで出かかって、だけど何故か言葉はセスナの喉にへばりついたように外には出てくれなかった。とにかく会いたいのだと、そればかり繰り返した。
「うーん……実は今、空港から本店に向かってるタクシーの中なんだよね。帰ってみないと細かいスケジュールがわからないんだけど……参ったな、あまり期待はしないで欲しいんだ。長期出張の後は、いつも本当の本気で忙しくなるから。少しでも時間が作れたらいいんだけど……何なら電話、栄と代わろうか?ここにいるから、長旅でちょっと寝ボケてるけどね」
代わってくださいとは、言わなかった。また電話しますと言って切った、どうしようもなかった。
セスナが子供服を作りたくて、それで『polka dots』に入社したいのだったら、電話でも良かったかもしれない。だけど、そうではないのだ。
セスナが作りたいのは子供服ではなく、ウエディングドレスだ。その修行を子供服ブランドでさせて欲しいというのは、お門違いだろうか?でも、それでもセスナが最も尊敬するデザイナーは中森栄、その人だ。憧れの人の元で勉強したい、だけど目指すものは違う。
自分でも、矛盾しているということぐらいはわかっている。だからこそ、電話では駄目だと思った。直接会って、この胸の内を訴えたい。それに、どうしてもやっとの思いで縫いあげたセスナのドレスを見て欲しい。
バスは、ゆっくりと暮れて行く街を走り続けた。青蘭女子大学には行かないと言ったら義兄はどんな顔をするだろうと思うと、きれいな夕焼けもセスナの瞳には映らない。
自分勝手な言い分だとはわかっているけれど、ドレスを縫いあげたその勢いのまま走り出したかった。もちろん、情熱は冷めていない。だけど、この十日余りの間に勢いが削がれたことは確かで。
大丈夫、大丈夫だとセスナは自分に言い聞かせた。
情熱は冷めていない、冷めるどころか益々熱くなるばかりだ。
大丈夫、もう迷わない。
セスナは、夢へと続く道を歩くと決めたのだ。
義兄が用意してくれる道の方が広くて、平坦な道だとわかっている。それでもセスナは、先の見えない険しい道の方を選ぶ。
大丈夫、恐くなんてない。
たとえ荒れた道を行くことになったとしても恐れることは何もないと、セスナはぐっと拳を握った。