165 涙の理由
教室移動のために廊下に出た春樹は、ふと思いついて窓の方へ近づいた。
さっきの時間、A組は体育だった筈だ。希羅梨はまだいるかなとグランドを見下ろしてみると、ぞろぞろと帰って行くジャージの群れの中に希羅梨の姿が見当たらない。もう校舎に入ったのだろうと思って、自分も早く理科室に行かなくてはと窓を離れようとした時、グランドの隅の方で重そうな鉄かごを運んでいる二人に春樹は気づいた。
一人は、薄茶色の髪。もう一人は、きれいな長い髪だ。遠目でも見間違いようがない、それは雪都と希羅梨だった。
「……」
希羅梨が雪都と一緒にいるところを見る度、春樹の胸はぎゅっと何かに押さえつけられたように苦しくなる。それは今に始まったことではない、希羅梨から雪都と交わした秘密の契約のことを聞いた時からずっとそうだ。
本当に、どこまであの娘は健気なんだか。
そう思うと、胸が苦しい。
夏休みがもう数日で終わるという頃のことだ、希羅梨から電話があった。そろそろ晩御飯かななどと思いながらベッドに寝転がって本を読んでいた春樹は、携帯から聞こえて来た希羅梨の掠れた声に飛び起きた。
何があったのとか、どうして泣いてるのなんて訊かなかった。すぐ行くとだけ言って、電話を切る。階段を一気に駆け下りると、母がもうすぐご飯よ台所から顔を出した。玄関で靴を履きながら、希羅梨んとこ行って来るとだけ言って春樹は外に飛び出した。いつの間にか辺りは夕闇に暮れなずんでいた、湿気を含んだ空気がねっとりと春樹に纏わりつく。
べとつく不快感に春樹は一瞬だけ顔をしかめたが、それでも構わず走り出した。
大切な親友が泣いている、走らずにはいられなかった。
人通りのほとんどない道を全力で走っているうちに空はどんどんと暗くなり、星が瞬き始めた。
僅かの躊躇もなく春樹は、広い通りよりも抜け道を選ぶ。小さな雑貨屋の横から裏道に入り、やっと自転車一台が通れるかどうかというくらいの狭い路地を駆け抜けた。どこかで犬が遠吠えをしているのが聞こえていた、蒸し暑かった。
希羅梨が泣きながら電話して来るなんて一体何があったのだろうかなどと考えるまでもなかった。
希羅梨が泣く理由は、ひとつしかない。
親に見放され、ただ一人だけ希羅梨を優しく慈しんでくれた兄はもういない。十七歳の女の子なら寂しくて不安で泣き暮らすだろう身の上なのに、そんなことでは希羅梨は絶対に涙を見せない。
希羅梨が泣くのは、恋のためだけだ。
好きな男を想って堪らない時だけ、希羅梨は涙を流す。
呼び鈴を押すと、希羅梨は転がるように飛び出して来た。そして、春樹に抱きついて声をあげて泣いた。まるで迷子の子供みたいにが母親を見つけた時のように、ひたすら泣き続けた。
バイト中に気分が悪くなり、たまたま店に来た和馬に送ってもらった。切れ切れの希羅梨の言葉を繋ぎ合せると、どうやらそういうことらしい。
自転車の後ろに乗せてもらって、希羅梨がずっと必死で堪えていた何かが切れたのだろう。和馬が後ろにセスナを乗せているのをいつも希羅梨がじっと見ていたことを、春樹は知っている。
どうしてかわかんないけど泣いちゃったのと、希羅梨は言った。どうしても涙が止まらなかったのと。
困らせちゃった、変な子だと思われたかなぁと、泣きながら春樹に訊いて来る。そんなことないよと背中をポンポンと叩いてみたけれど、希羅梨はいつまでも泣きやまなかった。
その日、初めて春樹は和馬を憎いと思った。
それまでは、仕方のないことだと思っていた。恋愛感情というものは、そうそう都合のいいように操作は出来ない。
私の親友の希羅梨がアンタを好きなんだから、アンタも希羅梨を好きになりなさいよなんて言っても仕方ない。ああ、それならと好きになれるなら、それこそ偽物だと思うから。
カタカタと震えながらしがみついて来る希羅梨に慰める言葉もなくて春樹は、自分の無力さが悔しくて泣けて来た。どうして希羅梨ばかりが辛い目に合うのだろうか、この世には神様なんてきっといないに違いない。
泣いて泣いて泣いて、涙も声も枯れるほど泣いて、疲れてようやく泣きやんで希羅梨は、キッチンのフローリングの床にぺたんと放心したように座ってぽつりと、疲れたと言った。そしてお腹すいちゃったと、ぺろっと舌を出してすっかり腫れてしまった目を細めて笑った。
ああ、どこまでこの娘は健気なんだろう?
やかんを火にかけお湯を沸かし、カップのうどんを二人で食べた。美味しいね、美味しいねと言いながら二人で食べた。
うどんでお腹がいっぱいになると、またお湯を沸かして今度は紅茶を淹れた。私が淹れるよと言う希羅梨を手の動きで制しておいて、春樹が時間をかけて丁寧に淹れた。
美味しいお茶を飲ませてあげたかった、熱いのがいいと思った。エアコンの温度を低くして、ガンガンに部屋を冷やしておいてから熱いミルクティーを飲んだ。
美味しかった、美味しいと感じられることが嬉しかった。体の底の方が段々と温まって来て、こういうのを生きてるって言うんだと思った。
「……幸せになりたいな」
春樹が淹れたミルクティーを飲みながら希羅梨が言った、笑っていた。
「春樹ちゃん、私ね、幸せになる」
「うん、頑張れ」
「約束するよ、絶対絶対幸せになるからね」
「うん、約束。絶対に幸せになれ」
幸せになって、どうかお願いだから。
あんなに真剣に祈ったのは、生まれて初めてだったかもしれない。ついさっき神の存在を否定したばかりなのに、すぐに祈ってしまう。
幸せになれ、幸せになれ、幸せになれ。
どんな形でもいい、希羅梨が幸せだと感じられる未来をどうか掴み取って。
あの時飲んだミルクティーの味が、まだ喉の奥に残っているような気がする。窓の外、雪都と希羅梨の姿を目で追いながら春樹は、喉に手を当てて押さえた。
「はーるき、行こ?」
名前を呼ばれて振り向くと、藤田あゆみの人懐っこい笑顔にぶつかる。三年になって初めて同じクラスになったあゆみはさっぱりとした明るい性格で、女の子女の子したのが苦手な春樹とはよく気が合った。
あゆみも友達だ、大好きな友達だ。
だけど、春樹の親友の席に座れるのはただ一人、希羅梨だけなのだ。
「何見てんの?」
「んー、A組。さっきの時間、体育だったみたい」
「お、ホントだ。美雨、何やってんだろ?」
「え?」
あゆみに言われて春樹は、初めてそれに気づいた。もうみんな帰ってしまったのに、一人だけ立ち止まっている女の子がいる。
髪をおだんごにまとめている小柄なその女の子の名前は、中森美雨。あゆみの親友で、三年になってからは春樹とも仲が良くなった娘だ。
希羅梨によると、永沢雪都の想い人だとか。
幼馴染なんだってと、いつだったか言っていた。
その美雨が、一人教室に戻らずに何かをじっと見つめていた。その視線の先を追うと、片付けをしている雪都と希羅梨の後姿に行き着く。
二人が角を曲がって校舎の影に入って見えなくなっても美雨は動かず、そのままその場に立ち尽くしていた。