162 雷を呼ぶ男
夏休み編、ラストです。
ゴロゴロという地の底を這うような低い雷鳴に涼華は、ハッと我に返って顔をあげた。シャーペンを握ったままで慌てて周りを見回してみると、煌々と電灯の灯された広い職員室には涼華の他に誰もいない。
窓の上にかかっている柱時計を見てみると、午後七時を二十分ほど過ぎていた。ほんの少し前まではたくさん残っていたのに、いつの間にみんな帰ってしまったのだろう?
明後日から始まる二学期の授業計画を立てるのに夢中になっていて、どうやら同僚たちが帰って行くのに気づかなかったらしい。しかも、いつも鬱陶しいほど涼華にまとわりついて来る古典教師、矢田部彦市の姿さえない。
毎日毎日飽きもせず、食事に行こうだの呑みに行こうだの誘って来る癖に、今日に限って何も言わずに先に帰ってしまったのだろうか。彦市の机の上に鞄が見当たらないから、多分そうなのだろう。
ゴロゴロ、ゴロゴロと低い音がまた聞こえた。涼華のこめかみから頬にかけてツーッと、冷たい汗が伝い落ちる。
まだ遠そうだ、だけどすぐに来そうだ。ゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロ……。
涼華は、机の上に広げてあったバインダーをバタンと勢いよく閉じると、一番上の引き出しを開けてそれをねじ込むようにしまった。それから、今度は一番下の引き出しを開けて、そこに入れてあったワインレッドの小ぶりなバックを掴み出すと勢いよく立ちあがる。
ヒールの足音を高く響かせながら職員室を飛び出し、電気を消さないとマズいことに気がついてすぐにとって返す。入口付近の壁にあるスイッチで電気を消して、それから職員室のドアをきっちりと閉めてた。鍵は、あとで用務員がかけに来るからこのままでいい。
涼華は、歩き出した。慌てることはない、まだ雷は遠い。そうだ、養護教諭の宇崎真央がまだ残っているかもなどと思いながら廊下を進むとピカッと、窓の外が真っ白に光って涼華は、ひぃーと声にならない悲鳴をあげて飛び上がった。
「ま、ま、ま、まおまおまお、真央ーっ!」
転がるように廊下を走ってたどり着いた保健室は、だけど無情にも灯りがついておらずにドアも閉められていた。
何だって今日に限ってみんなこんなに早く帰ってしまったのか。六時を過ぎた頃に激しい夕立ちが来て、それが弱まったタイミングを見計らって他の教師たちはバタバタと帰って行った訳なのだが、受験生にとって最も重要な二学期の授業計画を立てるのに没頭していた涼華は、そのことに全く気付いてなかったのだ。
「そんなぁ、真央ー!」
無駄だと知りつつ、保健室のドアをドンドンと拳で叩いてみた。すると、涼華の背後がまたピカッと白く光った。ひあーと、またもや涼華は飛びあがる。光を追いかけるようにゴロゴロと、追い打ちの雷鳴が轟く。今度は近い、涼華のすぐ頭上から聞こえる。もう駄目だ、完全に逃げ遅れた。
地震、雷、火事、親父。この世の恐いものの代表だそうだが、涼華はあまり体験したことのない地震や火事をそう恐いとは思わないし、一人娘の涼華に激甘な親父に至っては全く全然、笑っちゃうほど恐くない。
だけど、雷だけは恐い。
恥ずかしいから隠しているけれど、子供の頃に近所に住んでいた人が落雷で黒こげになって死んだと聞いた時から涼華は、雷だけはどうしようもなく恐くて仕方ないのだ。
涼華の実家の斜向かいに住んでいた、でっぷり肥えたおじさんだった。涼華の顔を見ると、涼ちゃんは元気だねといつも笑って声をかけてくれる優しいおじさんだった。
そのおじさんが、ゴルフに行っていて隠れる場所もなく直撃を受けたらしい。
あのおじさんが黒こげになって死んだのだと思うと、幼い涼華は恐怖で引きつけたように泣いた。
地震も火事も親父も恐くない、だけど雷だけは訳が違う。
もっとも、涼華はプライドがエベレスト級に高いから、誰か一人でも人がいたらそんなどうしようもなく恐い雷でも平然とした顔でやり過ごすことが出来る。授業中に雷で停電して、女子生徒たちがキャーと悲鳴をあげても落ち着いてと、凛とした声を張り上げることが出来るのだけれど、一人だと駄目なのだ。誰もいないところで雷に遭遇すると、途端に小さな子供に逆戻りしてしまうのだった。
ドーン、バリバリバリバリ。
真っ黒な雲を稲光が切り裂く、地響きが廊下に並んだ窓のガラスをガタガタと震わせた。涼華は手で耳を押えて目を閉じて、崩れるように廊下にしゃがみ込んだ。
「イヤーッ!」
恐い、雷が落ちて来る。あの光はきっと、涼華を黒こげにしてしまうのだ。斜向いに住んでいたあのおじさんみたいに、涼華は黒こげに……。
「ひっ!」
「あれぇ、そこに誰かおるん?」
ピカッ光った拍子にまた飛び上がった涼華は、廊下の先、暗闇の中から誰かが歩いて来るのに気づいた。また外が光る、その白い光に浮かび上がった狐顔。その見飽きるほど見なれた細い目に涼華は、ハーッと全身の息を吐き出した。
「なんや、涼華か。まだ帰ってなかったん?」
東京に出て来てすぐに涼華は標準語を身につけたのに、いまだに故郷の言葉で飄々と喋る幼馴染は廊下にしゃがみ込んでいる涼華の前までのんびりと歩いて来ると、ぴたりとそこで足を止めた。
「そんなとこで、何遊んでるん?」
「……」
涼華は、口を横一文字に引き結んだ。
そして、何事もなかったかのようにすっくと立ち上がる。
彦市と涼華は、物ごころついた頃からご近所さんの幼馴染で、涼華は彦市のことなら大抵知っているし、彦市は涼華のことなら大抵知っている筈だ。涼華の雷嫌いも彦市は当然知っている筈なのに、この物凄い雷鳴の中でしゃがみ込んでいた涼華に向かって遊んでるとはどういうことか。
ああ、こいつはそういう男だったわねと思いながら涼華は、しゃきっと背筋を伸ばして立ちあがると、長い髪をばさりと振った。
「ちょっと、落し物しちゃって探してただけよ」
「そらアカン、ボクも一緒に探したるわ」
「もういいの、見つけたから」
「ホンマに?」
「どうして疑うのよ?」
「別に疑ってないやん。涼華、何かむきになってへん?」
「なってへん!」
カッカッとヒールの音を響かせて、颯爽と涼華が歩き出した。窓の外ではまだ雷が、ドーン、ゴロゴロゴロと盛大に暴れている。
「アンタ、帰ったんじゃなかったの?」
「帰ってへんよ、資料室で調べ物しとったんや」
「へー、あんたが調べ物なんて珍しいこともあるものね。なるほど、だからこんな天気になった訳ね」
「なんや、それやとボクって雷を呼ぶ男みたいやね」
「馬鹿、何言ってんのよ」
ひょいひょいと隣を歩いている、彦市のスーツの肩口が濡れていることに涼華はすぐに気づいた。薄グレーのスーツを着ているから、薄暗い廊下でも彦市が濡れているのが見て取れる。
器用なことに、この嘘つき狐は資料室にいて雨に濡れたらしい。
「もうちょい、小降りになってから帰ろうや」
「………ま、しょうがないわね」
通用口を出た所のひさしの下に留まって、涼華は彦市と一緒に雨を眺めた。バラバラと、雨がトタン屋根を叩いている音がやたらと大きく聞こえる。
「………」
雨を遮ってくれるひさしが小さいから、二人の距離は触れ合うほどに近かった。だけど、触れはしない。ほんの少し身じろぎするだけで触れ合えるけれど、だけど二人とも動かなかった。
バラバラと、雨がトタン屋根を叩いている。
雷雲は遠のきつつあるのか、雷鳴が少しずつ小さくなって行く。
夏が、終わる。
真っ黒に日焼けした生徒たちが帰って来る、また忙しくなる。
まだ止みそうにない雨を見ている狐の横顔を見ながら涼華は、可愛い教え子たちはどんな夏休みを過ごしたのだろうとふと考えた。
受験生だし、涼華の受け持ちの生徒たちの志望校は押並べて難関揃いだから遊ぶ暇なんてなかったかもしれないけれど、だけど彼らの夏が大人になってから懐かしく思い出せるような煌めく夏だったらいいなと、涼華は思った。