161 さよならの雨
バシャバシャと水を跳ね上げながら、美雨は走っていた。すぐに止むだろうと思っていた雨はなかなか止まず、ゴロゴロと背後から雷鳴が追いかけて来る。
まるで雷から逃げるように、美雨は走った。
傘もささずにずぶ濡れになって走る美雨に道行く人が振り向くけど、美雨はそんなことにも気づいていなかった。
何あれ何あれ、何よあれと、心の中で叫ぶ。
何あれ、どういうことなのと、叫べば叫ぶだけ苦しくなった。
デートしようと、彼は言った。聞き間違えじゃない、確かにそう言った。
晴音を連れて三人で水族館に行こうと言うのならわかる、晴音なら喜んでくれそうだ。七夕祭りの時だって三人で行く筈だった、結局は二人きりで行くことになったのだけれど。
彼女がいる癖に、あんなに可愛い彼女がいるのに。
希羅梨の明るい笑顔を思い描けば、さらに苦しくなる。あんなに仲のよさそうな二人なのに、彼があの可愛い彼女を裏切ろうとしたなんて、そんなこと信じられない。
どうしてあんなこと言うのよ……楽しかったのに。この一ヶ月、一緒に勉強できてすごく嬉しかったのに。
子供の頃に戻れた気がした。
彼を一番身近に感じていたあの頃、彼の隣にいるのが当たり前だったあの頃。
楽しかったのに、子供の頃みたいで嬉しかったのに。どうしてあんなこと言うの、どうして?
雨は、勢いこそ和らいだもののどうやらやむ気はないらしく、霧のように細やかな水滴が静かに降り続けていた。辺りはすでに薄暗く、街は夜の色に染まり始めている。
闇雲に走っていた美雨はいつしか、賑やかな駅前商店街を突っ切って住宅地の方まで来てしまっていた。ヘッドライトを灯した車が、人通りのない狭い道をふらふらと走っていた美雨にパッパーとクラクションを鳴す。車を避けた拍子に美雨は、人家の灰色に薄汚れたブロック塀に手をついて止まった。ハアハアと、肩が大きく上下する。疲れがどっと襲いかかって来たようで、体が鉛を詰められたかのように重かった。
彼は、どうしてあんなことを言い出したのだろう?
塀に両の手のひらを押しつけて荒い呼吸を繰り返しながら、美雨の頭の中は混乱していた。デートしようと言った、そう言った。どうしてどうしてどうして、どうして私に?
彼がいい加減な性格でないことは、幼馴染である美雨はよく知っている。子供の頃から彼は、一本筋の通った考え方をするのだ。よく言えばきっちりした、悪く言えば融通の利かない男の子だ。
そんな彼が、彼女がいるのに他の女の子をデートに誘ったりするだろうか?しないと思う、それが美雨のよく知っている永沢雪都という男の子だ。
だとすると、デートと言ったのは冗談というか、ちょっとした言葉の綾で、単に美雨は幼馴染として遊びに誘われただけで深い意味はなかったのだろうか。この夏休みはどこにも行かなかったと美雨は言った。だったらどこかに連れてってやろうと、彼なら考えるかもしれない。
美雨は幼馴染だ、彼女ではないけれど幼馴染だ。彼だったら、彼女じゃないただの幼馴染でも頑張って勉強したご褒美代わりに水族館くらいならつき合ってやろうとしそうだ。
違うって、言ってたっけ……。
他にも何か言っていたような気がするけれど、動顛していたからよく覚えてない。彼は何と言っていただろうか、姫宮のことは気にしなくていいとか何とか……いや、違っただろうか。
「やだ、私ったら……」
早とちりしてしまったのだろうか?だけど彼の目は恐いくらいに真剣で、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「……」
いつまでも降りやまぬ雨が、美雨を責めているような気がした。お前はずるいと、言い訳ばかり探して誤魔化して、逃げてばかりだと責めたてられているような気がして美雨は、罪悪感に押しつぶされてしまいそうになった。
本当は、わかっていた。
こんなことしては駄目だと、本当は美雨にはわかっていた。
彼には、可愛い彼女がいる。そんなことはよく知っている、希羅梨は美雨にとっても大切な友達なのだから。
彼女のいる彼と毎日会うなんて、そんなことはするべきではなかったのだ。
幼馴染だからとか、勉強しているだけでやましいことはないからとか、そんなことは言い訳にもならない。一緒に勉強しようと、彼と申し合わせた訳でもない。いつも彼が図書館で勉強しているのをいいことに、押しかけて行ったのは美雨の方だ。
悪いのは美雨だ、デートしようなんて言いだして、二人の間にあった無言の不文律を最初に破ったのが彼の方だとしても。
「私……」
だけど、行かずにはいられなかった。彼がそこにいると知っているのに、じっと家になんていられなかった。
会いたくて、会いたくて会いたくて会いたくて会いに行った。
ただ、傍にいたかった。薄茶色の髪が揺れるのを見たかった、グレーがかったあの瞳に美雨を映して欲しかった。
一緒にいたかった、ただそれだけだった。
「…………」
認めたくない、認めたくなんかない。だけど美雨は、デートしようと言われて本当は嬉しかったのだ。
あの瞬間、ぶわっと暖かい何かが押し寄せて来て美雨を満たした。それは、幸せと呼ばれるものとひどく似た感情だった。
だけど、彼の口から姫宮という名前が出て来た時に美雨は、それが瞬時に凍るのを感じた。自分から彼女の名前を持ち出した癖に、彼の唇がその名を紡ぐのが我慢できなかった。
激し過ぎる感情の起伏について行けなくて、何がなんだかわからないままに彼を責めた。ひどい言葉を投げつけて、詰ってしまった。美雨には、彼を責める資格なんて欠片もなかったのに。
痛かった、認めるのは激痛を伴った。
けれど、もう逃げることは出来なかった。
美雨の目から、涙が溢れた。
好きだった、いつの間にか美雨は雪都を好きになっていた。それは優しい幼馴染に対する好きではなく、我儘でエゴイスティックな恋情だった。
胸がぐぐっと苦しくなった、心臓が潰れるかと思った。その鋭い痛みに美雨は、コンクリート塀についた手をぎゅっと握った。
もう、どう足掻いても誤魔化せなかった。
三年生になって、いつまでも新しいクラスに馴染めずにいた美雨に明るく話しかけてくれた希羅梨を、美雨は本心から大好きだと思う。あゆみや澪と同じくらい、大切な友達だと思う。
だけど、仲良くなってもう何か月も経つのにあゆみや澪に対する気持ちと希羅梨に対する気持ちはどこか違う。間に一本、線が引かれているような気がしていた。
友達なのに、気軽に電話することも出来ない。ましてや、休みの日に待ち合わせて一緒にどこか行こうなんて考えたこともない。
その理由がようやくわかった気がする。
線を引いていたのは、美雨だったのだ。
美雨は妬いていたのだろう、彼に好かれている彼女を無意識に敬遠していたのだろう。
「やだ……こんなの、やだ……」
自分の醜い部分をいきなり突きつけられたようで、美雨の胸は張り裂けそうに痛んだ。違う、そんな筈はないと打ち消したくて、だけど彼が彼女と一緒にいるところを想像すると叫び出してしまいそうで。
雨が、音もなく降っていた。宵闇はますます深くなり、まだブロック塀に縋るように両手をついている美雨の背後で街灯が遅ればせながらジジッと微かな音をたてて灯った。
忘れなきゃと、美雨は思った。
こんな気持ち、最初からなかったことにしなきゃと思った。
彼は、美雨にとって幼馴染だ。それ以上でも、それ以下でもない。
明日で夏休みは終わり、明後日から二学期が始まる。同じクラスなのだから否応なく顔を合わせなければならないのだ、忘れるしかない。
霧のような雨が降る、美雨の心の中にいつのまにか燃えていた恋の炎を消そうとしてるかのように、静かに降りしきる。
美雨は、目を瞑った。忘れる、忘れる、忘れると、呪文を心の中で何度も繰り返していた、その時だった。
「……もしかして、中森くん?」
思いがけず名を呼ばれて、美雨はビクンと体を震わせた。恐いものでも見るように恐る恐る顔をあげるとそこには、ダークグレーのスーツを着た背の高い男が傘をさして立っていた。
「せんせ……」
その時になって、ようやく美雨は辺りを見回した。無茶苦茶に走って、いつの間にか学校の近くまで来ていたらしい。
そこは、沢浪北高校の裏口から出て、角を二つばかり曲がったあたりだった。学校の敷地内にはそんなに広い駐車場が取れなかったから、この先に教師用の駐車場があることなどは、美雨は知らないことであったけれど。
「やっぱり、中森くんだ。どうしたんだい、そんなに濡れて……何かあったのかい?」
駆け寄って来る阿久津を、美雨は呆然と見つめていた。まるでスローモーションのように見えた、運命なんて言葉が美雨の頭を掠めた。
どうして今、雪都への想いを自覚したこのタイミングで現れるのだろうか。神様が間違った方へ向かおうとした美雨を、力技で引き戻そうとしているような気がした。
お前の好きな男は、この男だろうと言われた気がした。
間違えてはいけない、お前の運命の相手は幼馴染の彼ではないのだと。
「中森くん、大丈夫かい?」
そう言いながら美雨を見る阿久津の目は、真剣そのものだった。その視線が、美雨の中でギリギリに張りつめていた糸を切った。
「先生、私……」
あまりに色々な感情が嵐のように渦巻いて、美雨はなす術もなく木の葉のように翻弄された。一人ではどうしようもなくて、気がつけば阿久津の腕の中に飛び込んでいたのだ。
そして美雨は、その胸にすがってわーっと声をあげて泣き出した。
阿久津が持っていた大きな傘が、美雨が阿久津にぶつかった拍子に弾かれて飛んだ。二人、雨の夜に包まれた。サーっと、雨音が聞こえる。
「先生、私、先生が好きです!阿久津先生が好きなんです」
吐き出すように告げられた想いに阿久津は目を瞠った。
後はただ、雨音が響いていた。