159 夢が始まる場所
茜色の光が長く差し込む被服室で、最後のビーズを縫い止めたセスナは、ふぅっと長く息を吐いた。糸を切り、針を針山に戻してから立ち上がる。そして、出来あがったドレスを腕を伸ばして掲げるように広げた。
「きれいに出来たな」
「いや、満足する出来には程遠い。でも……」
「でも?」
「でも、出来た」
「ああ、よく頑張ったな」
出来上がったドレスをぎゅっと胸に抱くとセスナは、世話になったと怜士に向かって頭をさげた。怜士は椅子に座ったままで、柔らかく笑いながら目の前で頭をさげているセスナを見上げた。
「俺は何もしてねえだろ、お前が頑張ったんだ」
「でも、ずっとつき合ってくれたではないか。お前がいてくれなかったら、私は途中で心折れていたかもしれぬ」
「んな訳ねえだろが、お前の服への意気込みは本物だ」
『polka dots』のショーを観に行った日の翌日からほぼ一ヶ月間、つまりこの夏休み中ずっとセスナは土日や盆で学校が閉まっていた日以外は毎日この被服室に通い、一枚のドレスを縫いあげた。
柊也にはセスナが自分で、手芸部の用で学校に行くと言った。これまで夏休み中に部活はなかっただろうと柊也は訝しんだが、今年だけ特別なんですと答えた。
確かにセスナにとって、この一月は特別だった。最初の三日間で博隆にミシンの特訓を受け、型紙の作り方を教わった。それから生地を裁断して縫う作業は、博隆が貸してくれた洋裁の本を繰りながら手探りで進めた。たまに様子を見に来るよと言った言葉通りに、博隆が週に一度は必ず顔を出してくれた。本から得る知識と博隆の適切な助言を頼りにセスナは一歩、また一歩と這うように歩を進めたのだ。
「着てみたらどうだ?」
「いや、これは着るために作ったものではないからな」
セスナは愛おしそうにドレスを抱きしめて、怜士がこれまで見たことのない顔で笑った。なんて幸せそうな顔をしやがるんだよと思うと、怜士は何だか悔しくなった。怜士があんな顔をさせてやりたかったのだ、だけどセスナは怜士を見ようともしない。
だけどそれでも、悔しさと同じくらいの大きさの嬉しさが怜士の中にある。セスナは自分の幸せの在処をやっと見つけたのだろう。セスナの幸せを願う怜士が、そのことを喜ばない筈がない。
飛鳥井の家で小さくなって、決して自分を出そうとしなかったセスナが初めて欲しがった夢。
セスナの幸せはここにあった、ようやく見つけた。
「じゃあ、それ持って行こうぜ」
「行くって、どこにだ?」
「お前の憧れのデザイナーの所だろ、他にどこがあるよ?」
そう言って立ち上がる怜士に、セスナは大きく目を瞠った。行こうぜと歩き出したのを、シャツの端を握って止める。怜士が振り返って見ると、何か言いたいのに言葉が出ないのか、セスナが口をぱくぱくと開けたり閉めたりしていた。
「お前の憧れのデザイナーにそれ見せて、弟子にしてくれって頼むんだろが?そうでなきゃ、何のために夏休みを潰してそんなもんを作ったんだよ」
「いや、これは私の自己満足と言うかだな、その……」
「自己満足でお前は、夏休みを潰したのか?ただの夏休みじゃねえぞ、お前は受験生なんだからな」
それはそうなのだがと口ごもりながら俯いたセスナに、怜士はふっと笑った。そしてポンッと、セスナの頭の上に手をのせる。
「セスナ、服を作ると言った時の勢いはどうしたよ。一着縫えば、それで満足なのか?違うだろうが、そんなもんじゃねえだろうが。セスナ、もう誤魔化すのも逃げるのもやめろ。柊也さんに、デザイナーになりたいとちゃんと言え」
「怜士、私は……」
「デザイナーになりたいんだろ?」
「怜士」
「服が好きなんだろ?」
長身の体を折って、怜士は背の低いセスナの顔を覗き込んだ。大きな瞳が、まだ迷っていた。何を迷うことがあるんだよと、怜士は笑った。答えはとうに出ているのだ、セスナに迷う余地などもうどこにもない。
ふぅっと、全身の酸素を吐き出すようにセスナが長く長く息を吐いた。そして、次にセスナが顔をあげた時には、セスナの瞳には強い力があった。
「お前は、どうしてそんなにお節介なんだ?」
「そりゃ、お前に惚れてっからだろうが」
「怜士、そういうことは何度も言うな」
「なんだ、前に言ったの覚えてたのか?」
「当たり前だろう」
「それならそういう態度を見せろよ、少しは俺を意識しろっての」
するとセスナは、何を思ったのかニヤリと笑った。そして、それは無理だなと答えた。
「あー、何で無理なんだよ?」
「無理なものは、無理だ。怜士は、怜士だからな」
「どういう意味だよ、それ」
「そんなことぐらいは、自分で考えろ」
「お前って、柊也さんには弱い癖に、俺にはやたらと強気じゃねえか?」
「当たり前だろう」
「どうして当たり前なんだよ」
「だから、怜士は怜士だからだ」
「わかんねえよ」
「やっぱり阿呆だな、怜士」
セスナにとって、怜士は怜士だ。揺るぎなく怜士だ。
いつだって、無条件にセスナを安心させてしまうのが怜士だ。他の誰も、和馬でさえセスナをこんなに安心させることは出来ない。
セスナは、もう一度ドレスを広げた。
博隆のアドバイスで、胸元にはサテンにチュールレースを重ねた。二枚を重ねて縫うのは難しくて苦労したが、何とかイメージ通りに仕上がった。スカートには、透明なグラスビーズを縫いつけた。これだけで丸三日かかった、単調で気の遠くなりそうな作業だった。
あなたはミシンに触らないでと言われたほど不器用なセスナなのに、よく作れたものだと思う。まさかたった三日の特訓でミシンが使えるようになるなんて夢にも思わなかった。博隆の教え方がよかった訳だが、セスナの意気込みも以前とは段違いだったせいもあるだろう。
飽きることなく、セスナはいつまでもドレスを見つめていた。真っ白なドレスが夕焼け色に薄っすらと透ける。
決して満足いく出来ではない、デザインは素人臭くて洗練されたものではないし、縫製に至っては言わずもがなだ。
「私は、デザイナーになれるのだろうか?」
「才能があるかってことか?知らねえよ、俺に訊くな」
「やはり阿呆だな、怜士。こういう時は嘘でも、才能があると言うものだ」
「お前がそんな嘘を欲しがるタマかよ」
「まあ、そうだがな」
ふわりとセスナが、目を細めて笑った。怜士が見たことのないような、茜にとけてしまいそうなあどけない笑顔だった。
「怜士、ありがとう」
「だから、俺は何もしてねえっての」
「それでも、ありがとう」
「だから……」
重ねて反論しようとして怜士は、途中で言葉を止めた。セスナの満ち足りた笑顔が、怜士に言葉を止めさせたのだ。
もしかしたら自分は、とても大切な場面に立ち会ったのかもしれないと怜士は気づいた。今、この場所がセスナの出発点なのだろう。その場面に怜士は立ち会った。セスナの恋人ではなく、怜士が。
「セスナ、頑張れ」
「ああ」
「頑張れ、頑張れ」
「わかってる、頑張る」
セスナの瞳に、もう決して消えることのない強い力が宿っている。その視線は怜士には向けられていないけれど、だけどそんなセスナが俺は好きなんだと、怜士はまた心に刻んだ。