15 5cmの隙間
「いらっしゃいませ、こちらにご記帳をお願いします」
そう言って丁寧に頭をさげるセスナに合わせて、怜士もぎこちなく頭をさげた。今日の怜士は、伸び過ぎた髪を首の後ろで束ねている。そうすると前から見ればきちんとした髪型に見えないでもないのだ、セスナには何だその変な髪型はと言われたけれど。
着慣れないスーツにネクタイをしめて、怜士はいつになく頑張っていた。きちんと着物を着こなしているセスナの隣に立つために、そりゃもう健気なほどに。
「セスナ、手伝わせて悪ぃな」
「何を言ってる、私は先生の手伝いをしているのだから怜士に礼を言われる筋合いはない」
「だから、お袋の手伝いをしてくれてんだから、息子が礼を言ってもおかしくねえだろが」
「そうか?」
フムと生真面目に考え込むセスナを、怜士はチラリ、チラリと横目で盗み見た。水色の地に蝶が描かれた着物がよく似あっている。
今日は、華道・田之倉流の年に一度の展示会なのだ。
怜士とセスナは、二人でその受付をしていた。
受付と書かれた長机を前に並んで立っている二人の間は、拳ひとつ分ほど開いていた。それ以上は絶対に縮まらない、5cmの隙間だ。
「いらっしゃいませ、こちらにご記帳をお願いします」
次に来た客は、怜士も子供の頃から見知っている夫妻だった。セスナと並んで頭を下げると、婦人の方が笑いながら「怜士くん、お母様のお手伝い?」などと言う。
子供扱いは是非ともやめていただきたい、特にセスナの前では。もっとも人生の後半戦を生きている婦人からしてみれば、高校生などまだまだ子供なのだろうけれど。
田之倉流の家元であった怜士の父は若くして他界してしまったので、今の田之倉流は母の美里が女の身で支えている。しかし、美里が家元を務めているのはあくまでも一時的なものあって、田之倉の血を受け継ぐ子供が成長するまでの繋ぎなのだ。
次の田之倉流を継ぐ者は、次男の怜士と決まっている。
兄の慧一は先代と再婚した時に連れて来た美里の連れ子なので、先代の血を継いでいない。だから後継者は怜士しかいないのだ。血を重んじる華道の家において、それは当たり前のことだった。
しかし、困ったことに怜士には華道の素養が全くなかった。試しに生けさせてみたら花皿の上にジャングルを築くどうしようもないセンスに頭を痛めた美里は、仕方なく息子の嫁に望みを託すことにしたらしい。
次の家元は怜士、それは揺るがない。
しかし、肝心の家元が花を生けられないでは話にならない。
公の場で家元の代理を務められる者がどうしても必要な訳だが、伝統ある田之倉流の家元代理が誰でもいいという訳にはいかない。
弟子では駄目だ、示しがつかない。嫁に望みを託すとは、つまりはそういうことなのだ。
飛鳥井セスナを落せ、それが母から怜士にくだった命令だ。
飛鳥井家は日本でも有数の旧家で、養女とはいえ飛鳥井家のご令嬢となれば田之倉の嫁にうってつけなのだ。
何が何でも落せと母は怜士をけしかけるが、そんなこと言われなくても怜士はセスナにきっちりと惚れていた。
セスナが田之倉家にお花を習いに来始めたのは今から五年ほど前のことだが、まだ中学に入ったばかりのセスナに怜士は会ったその瞬間に一目惚れした。雷に打たれたような衝撃が、それまで女になんてまったく興味のなかった怜士の体を駆け抜けたのだ。
小学生かと言いたくなる低身長と、お前は武家の娘かとツッコミたくなるような固い言葉使い。顔立ちは整っていて美少女と言えるだろうが、ほぼ笑わないせいで可愛いという形容詞は似合わない。
そんなセスナのどこがいいのか怜士自身にもわからないけれど、それでも好きなものは好きなのだから仕方がない。固い言葉使いだって可愛い、仏頂面だって可愛いじゃないか。
「ところで、セスナ」
「何だ?」
「お前、この後は何か予定あるのか?もしなかったら、今日の礼に食事なんぞ……」
「いや、帰りは兄様が迎えに来てくださることになっている」
「……そうか」
セスナは鈍い、かなり鈍い。五年も告白できずにいる怜士も怜士だが、こんなアプローチをされれば普通は気づくだろうに、セスナはまったく怜士の気持ちに気づいていなかった。
もしも怜士の気持ちを知れば、セスナはきちんと和馬のことを話して断るだろう。けれど、セスナは和馬の存在を学校の外ではなるべく隠している。セスナに恋人がいることを柊也が知ったらどう思うかと、考えるだけでセスナは恐くなるのだ。
なので、同じ高三でも違う学校に通っている怜士は、セスナに恋人がいることを知る由もなかった。
「……」
華道の展示会なんて、そんなたくさんの人が押しかける訳ではない。けれどセスナは、たまに訪れる客のために姿勢を崩そうとはしない。きっちりと背筋を伸ばし、前を見据えている。
怜士は隣に立っているセスナをチラリ、チラリと横目で盗み見ていた。二人の間にある5cmの隙間をもどかしく思いながら。