158 きらきら煌めく
竜見川の水面は、午後の日差しを受けてきらきらと煌めいていた。夕日町の西側を南北に両断するように流れるこの川は、七夕祭りの夜には花火大会の会場になる。
和馬もこの夏、この河原で花火を見た。混雑を避け、祭りのあった神社からかなり離れたこの場所で双子の妹たちと幼馴染の春樹、それに希羅梨が花火に歓声をあげるのを聞いていた。
あの夜、花火を見たのとちょうど同じあたりで、草の生い茂る堤防に自転車を横倒しにして、その横に和馬は希羅梨と並んで座った。
ほんの数十メートルほど先にきらきらと太陽の光を反射しながら川が流れているけれど、だけどここまで水音は届かない。ただ、ここがいくらか涼しいように感じるのは水の恩恵だろうか。若葉色に萌える草の上に手のひらをついて、和馬は空を見上げた。
「雪都と、喧嘩でもしたのか?」
何も訊かないでそっとしておいた方がいいんじゃないかと思ったが、だけど話を聞いて欲しいのかもしれない。この河原に座り込んでから数分、考えに考えてわからなくて、だけどやはり訊かずにはいられなくて和馬は沈黙を破った。
希羅梨は、声を押し殺して静かに泣いている。細い肩が、小さく震えていた。
「雪都の奴、なんかやらかしたのか?それだったら、俺が殴りに行ってやるぞ」
そう問うと希羅梨は、揃えた膝の上に伏せたままの顔を横に振る。
和馬に母はいないが、妹が二人もいるし彼女だっている。和馬は決して、女の扱いに慣れていない訳ではないのだ。
美和が喜ぶタイミングも泣くタイミングも心得ているし、和香がヘソを曲げるタイミングも機嫌を直すタイミングも知っている。セスナは時々わからなくなるけれど、だけど後になったら大抵はそうだったのかとわかる。あの時拗ねたのは自分がああ言ったからだなとか、喧嘩したまま家に帰ってからでも自力で気づけたりするのだから和馬は、決して女心に理解のない男ではない。
だけどその和馬でも、希羅梨が泣いている理由はわからなかった。具合が悪いらしいから、病院をやっている自分の家に連れて帰るつもりだった。バスより自転車の方がいいと言うから、後ろに乗せて出来るだけゆっくりと走った。
首筋に何かが触れた時、雨が降って来たのかと思った。夕立ちかと空を見ても、青く晴れ渡ったままだ。
だけどぽたり、ぽたりと首筋に水滴が落ちて来る。
希羅梨が泣いているのだと気づくと和馬は、家とは反対の方向に角を曲がった。深く考えた訳ではなかった、咄嗟にハンドルを切っていたのだ。
ただ、このまま家に帰ったらオヤジがいると思った。泣いているから診察なんて受けられないと考えた訳ではなく、泣いている彼女をヒゲオヤジに見せたくないと思ったのだ。
和馬は何も言わずにこの河原に希羅梨を連れて来た。希羅梨も何も言わなかった、自転車が止まると黙って降りた。和馬が土手に座ると、その隣に座った。そして静かに、声を殺して泣き続けた。
「それなら、どうしてそんなに泣いている?」
何も訊かないで、そっとしておいた方がいいのかもしれない。話を聞いて欲しいなら、もう話しているだろう。だけど希羅梨は、何も言わずにただ泣いているのだ。
泣きたいなら泣けばいい、泣いている理由を話したくないのならそれもいい。そっとしておいてやるべきだろう、黙って泣きたいだけ泣かせてやるのが和馬に出来る最善だろう。
だけど和馬は、訊かずにいられなかった。
どうしてこんなに泣いているのだろう、何故かどうしても知りたかった。
「本当に、雪都が何かやった訳じゃねえんだな?」
やはり顔を膝に伏せたままで、今度は縦に首を振る希羅梨を和馬はじっと見つめた。
和馬は、希羅梨に告白されたことがある。高校一年の時だった、セスナとつき合い始めたばかりの頃だった。
放課後の教室に忘れものを取りに行ったら、学級委員の仕事で居残っていた希羅梨とはち合わせた。遠足の行先希望なとどいう、どうでもいい内容のアンケートを生真面目に集計していた希羅梨に和馬は手伝いを申し出た。希羅梨は、いいよいいよと断ったけれど、強引に手伝うことにした。他に誰もいない教室がひどく寒くて寂しくて、女の子一人を残して帰ることは出来なかった。
その時言われた、ずっと好きだったんだよと。
ごめんと答えた、彼女ができたばかりだったのだ。
その時も泣かれた、希羅梨は今みたいに声をあげずに静かに涙を流した。
「姫宮……」
好きだったと言われて、和馬の頭に最初に浮かんだ言葉は、「どうして今頃言うんだ」だった。セスナとつき合いはじめたばかりのこのタイミングで、どうしてと。
沢浪北高校に入学して知り合ったセスナは女らしからぬ竹を割ったようなさっぱりとした性格で、和馬は初めて言葉を交わした瞬間に気に入っていた。いい奴じゃねえかと思ったのだ、それが恋になるとはその時には予想もしなかったけど。
だけどセスナの背景……両親は早くに亡くなったとか、たった一人の血縁だった姉も亡くなったとか、今は飛鳥井家の養女として肩身の狭い思いをしているとか、そんな諸々を知るに従って、和馬はセスナを放っておけなくなった。
先に手を取ったのは、和馬の方からだ。つき合ってくれとか、明確な言葉を告げた覚えはない。
だけど手を取っただけで、セスナは和馬の彼女になった。二人に言葉はいらなかった、何も言わなくてもわかり合えた。
希羅梨が和馬に告白したのは、そんな頃だったのだ。
情けないことに和馬は、何と答えればいいのかわからなかった。ずっと好きだったんだよと希羅梨は、過去形で言った。それはセスナという彼女がいる和馬への、精一杯の気づかいだったのだろう。
だけど、終わった気持ちではない証拠に希羅梨は泣いた。ごめんとしか言えなかった和馬の前で声を押し殺して、堪え切れない涙を流した。
もう少し早く言ってくれていたらと、その時の和馬は思った。ずっと、友達だと思っていた。希羅梨は和馬にとって、大切な友達だった。
友情は、恋情に変わりえただろうか?
いい奴じゃねえかと思っていたセスナがいつの間にか特別になっていたように、希羅梨の気持ちを知っていたらもしかしたら?
あの時の希羅梨の姿が、今の希羅梨と重なって見えた。細い肩を小さく震わせて泣く希羅梨が、和馬を好きだと言って泣いたあの二年前の希羅梨と同じに見える。
ただ泣き続けることで、好きだと言われている気がした。まだ好きなんだよと言われた気がして、何を都合良く解釈してんだよと和馬は自分に呆れた。
「雪都を呼ぶか?」
希羅梨が和馬に告白してからそう経ってない頃に、雪都が彼女が出来たといきなり言いだした。その彼女が希羅梨だと聞いた時には、和馬は耳を疑った。
ほんの少し前に和馬を好きだと言ったのにもう次の男かよと思いかけて、だけど何か言いたげな、でも俺は何も言わねえぞという意思がはっきりと読み取れる雪都の目を見て、和馬は全てがわかった気がした。
希羅梨はあの時点ではまだ自分を好きだったのだろうと、これは自惚れではないだろうと和馬は思っている。雪都が信用のおける男だということは、友達である和馬がよく知っていることだ。あいつは、いい加減なことはしない。希羅梨とつき合うと決めたのは、全てを承知した上でのことだったのだろう。
あれから一年以上の時が過ぎた、希羅梨は雪都の隣で楽しそうに笑うようになった。
「なあ、姫宮。俺にどうして欲しい?雪都を呼んで来て欲しいなら呼んで来てやる、俺は消えた方がいいなら消えるぞ。家に送って欲しいなら送るし、とにかくどうして欲しい?言ってくれ、頼むから。俺、どうしたらいいかわかんねえから」
ごめんなさいと、希羅梨は言った。ごめんなさい、ごめんなさいと呟くような小さな声で繰り返した。
ごめんなさいと言うだけで、顔は依然としてあげない。細い肩が震えていた、あの時と同じに。和馬を好きだと言って泣いた、あの時と。
「姫宮……」
肩のふるえを止めてやりたいと思った、思った途端に和馬は希羅梨を抱きしめていた。何も考えていなかった、体が勝手に動いていた。
華奢な希羅梨を包み込むように、和馬は両腕で抱きしめた。ただ、肩のふるえを止めてやりたいだけだった。