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school days  作者: まりり
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157 うれしくてせつない


 バイトをしているコンビニの奥、畳一畳分ほどしかない更衣室で希羅梨はゆっくりと目を開けた。パイプ椅子に座り、コンクリートの壁にもたれかかって休んでいたのだ。

 冷や汗が全身にびっしょりとまとわりついているのを感じる。体は冷たいのに暑い、暑くてたまらない。

 横になりたいけれど、ここにはそんなスペースはない。店長が、床に潰した段ボールを敷いたら寝転べないかと言ってくれたけれど、しばらく座っていたら治りますからといいですと言ったのは希羅梨だ。

 やっぱり段ボールを敷いてもらえばよかったかなと後悔が頭をかすめる、だけど一度寝転んでしまったらもう二度と起き上がれなくなってしまいそうな気がして恐い。


 大丈夫、大丈夫と希羅梨は自分に言い聞かせた。

 まだ大丈夫、まだ頑張れると。


 三十分ほど前、希羅梨はバイト中に眩暈がしてしゃがみ込んでしまった。朝から少しだるさを感じてはいたけれど、熱がある訳ではないから大丈夫だろうとバイトに出て来た。だけど、仕事をはじめてそんなにたたないうちに希羅梨は、商品整理をしていた棚の前で突然吐き気を感じたのだ。

 ふっと気が遠くなるのと同時に、辺りがぐにゃりとシュールに歪んだ。口を押えてしゃがみ込んだ希羅梨にすぐに気づいた店長が、抱き抱えるようにこの更衣室まで連れて来てくれた。

 タクシーを呼んであげるから帰りなさいと言われたが、希羅梨はとんでもないと断った。眩暈がしただけだから何でもないのだと言った。少しだけ休ませてください、それで大丈夫ですからと背中に冷や汗が滲んでいるのを感じながら笑ってそう言った。


 夏休みに入る前に自ら課した、『この夏は猛勉強する』と『バイトも頑張る』という二つの目標を希羅梨は、本当にただの一日も休まずにやり通して来た。もう盆も過ぎ、夏休みが残り僅かになった今日まで毎日夜の十時まで働いて、くたくたになって帰ってから机に向かう生活を続けてきたのだ。


 二学期になったらバイトを休ませてもらうつもりだから、今のうちに少しでも多く生活費を貯めておきたい。

 それに、もちろん勉強も手を抜けない。


 親に見放された希羅梨が進学するには、授業料の安い国立大に合格するしかないのだ。しかも、奨学金を得られるだけの成績でもって合格しなくてはならない。


 高三の夏は、バイトと勉強で過ぎて行く。

 海に誘われたけれど、それも断った。


 十七歳の女の子らしい楽しみひとつなく希羅梨は、時々親友の春樹と一緒に過ごす時間だけを自分への褒美にしてひたすら頑張っているのだ。


 希羅梨は、コンクリートの壁に頬をぺたりと押しつけた。ひんやりと冷たくて気持ちいい、これなら大丈夫だろうか。この時間は、バイトは希羅梨一人だ。そんなに長く店長を一人で頑張らせる訳にはいかない、希羅梨はゆっくりと体を起こした。


 まだふわふわと雲の上を歩いているような頼りなさを感じるけれど、だけど歩けそうだ。大丈夫、大丈夫と小さく口の中で呟きながら立ちあがり、希羅梨は歩き出した。

 更衣室を出て、通路の片側に積み上げられた段ボール箱に手をつきながら進み、すぐに行き当たった店内に続くドアを開ける。薄暗い所からいきなり店内に入ると、その眩しさにまた眩暈がしそうになったけれど何とか堪える。店長と、声をかけるとレジ前でレシートの用紙を交換していた胡麻塩頭の男が振り返った。もっと休んでなきゃ駄目じゃないかと怒ってくれる声に、希羅梨は顔をくしゃくしゃにして目を細めた。


 「もう平気です、御心配をおかけしました」

 「何を言ってるんだい、真っ青じゃないか。まだ休んでおいで。もうすぐ代わりのバイトの子が来るから、そしたら僕が車で送って行くよ」

 「そんな、とんでもないです!」


 本当に大丈夫ですからと言いながら希羅梨は店内を見回した。パンが入っている平たいプラスチックケースが、地べたに置かれたままになっている。店長一人だと、棚に並べる暇がなかったのだろう。


 「パン、並べますね」

 「駄目だよ、希羅梨ちゃん。そんなことは僕があとでやるから、希羅梨ちゃんは奥で休んでるんだ。いや、やっぱり早く帰った方がいいな。そうだな……誰か、友達に来てもらったらどうだい?春樹ちゃんだっけ、よく店に来てくれる友達。電話したら、迎えに来てくれるんじゃない?」

 「本当に大丈夫ですから」

 「駄目だよ、希羅梨ちゃんは頑張り過ぎだ。休んでなさい、いいね」


 強い口調で叱るように希羅梨に言い聞かせていた店長が、そこで一旦言葉を切った。娘を見るような優しい眼差しで、希羅梨を見つめる。


 「希羅梨ちゃんの事情はわかっているから遅くまで働かせてくれと言われたらそうするけど、だけど最近の希羅梨ちゃんはやっぱり無理してるように見えるよ。とにかく今日は休むんだ、年寄りの言うことは聞いておくものだよ」


 五十代の坂を昇り始めたばかりの店長はまだ年寄りと呼ばれるような歳ではないのだけれど、希羅梨の気持ちを和ませようとしてか自分で自分を年寄り呼ばわりして、ついでに下手なウィンクまでして見せた。そんな店長の優しさに、希羅梨はうつむいた。


 「やはりね、女の子を夜遅くまでまで働かせるのは心配なんだよ。シフトを調整してあげるから、希羅梨ちゃんはしばらく八時あがりにしたらどうだい?」

 「でも……」


 バイト代は、昼間と夜では違う。時給にすれば僅かな差だが、少しでも多いに越したことはない。

 本当は深夜が一番時給がいいのだけれど、十時以降は男しか使わないというのが店長の方針だ。だから希羅梨は夏休みに入ってから毎日、午後の三時から夜十時まで働かせてもらっているのだ。


 「まあ、それはまた今度相談しよう。とにかく、今日は帰った方がいいよ……あれ?」


 あの子、希羅梨ちゃんの友達じゃないかいと訊かれて、希羅梨はうつむいていた顔をあげた。ベタベタとポスターを貼ってあるガラスの扉越しにツンツンと立てた髪が見えて希羅梨は、思わず息を飲んだ。


 「やっぱりそうだ、君!」


 店に入るなり声をかけられて、和馬が目を丸くした。これまでに和馬は何度かこの店に来て、その度に希羅梨と親しげに話して行くから、どうやら店長が覚えていたらしい。


 「君、希羅梨ちゃんの友達だよね?」


 希羅梨が呆然としている間に人の好い店長は、和馬が驚いた顔をしているのにも構わず早口で事情を説明して、そして希羅梨を家まで送るように勝手に頼んでしまった。希羅梨の具合が悪いと聞いた途端、和馬の視線は希羅梨に向けられた。まだ話している店長を軽く手で制して、希羅梨の方に駆け寄って来る。


 「姫宮、大丈夫か?」


 和馬の真剣な目が、希羅梨を見据えた。あまりに真っ直ぐに見られて、希羅梨は半歩だけ後ろに下がってしまった。


 「顔色、悪ぃな。医者行くか?つーか、うち来るか?うちのヒゲオヤジに診てもらえよ。今からなら、急げば夕方の診察が始まる前に帰れるだろ」


 畳みかけるように一気にそう言われて希羅梨は、胸の前でぐっと拳を握った。大丈夫と、なんとか上ずった声を絞り出す。ちょっと眩暈がしちゃっただけで全然平気なのと、本当に平気に見えるように笑って見せる。


 「いいから行くぞ、荷物は?」


 貴重品は更衣室には置いてはいけない決まりだから、希羅梨は自分で縫った小さな布製の袋に財布やバスの定期、携帯なんかを入れてレジの下に置いている。そのことを知っている店長がカウンターの中に入って、希羅梨の荷物を持ち上げると希羅梨にではなく、何故か和馬に向かって差し出した。


 「これだけか?よし、行くぞ」


 財布やら定期やらが入っている袋を持って和馬が歩き出してしまったから、希羅梨は追いかけるしかなかった。慌てて制服代わりのエプロンを外してカウンターの内側の棚に放り込むと、すぐに踵を返す。


 「気をつけて帰るんだよ。明日も無理そうなら、朝のうちに電話して」


 そう店長に声をかけられたけれど、希羅梨には返事をする余裕がなかった。和馬は大股でずんずんと店を出て行ってしまうから、希羅梨は慌てた。さっきまでふらついていたのが嘘のように走る。眩暈も吐き気も、びっくりして吹き飛んでしまったようだ。

 自動ドアをくぐり、大きなゴミ箱が三つ並んで置いてある前で希羅梨は、そこで立ち止まって希羅梨を待っていた和馬に追いついた。ほいっと手渡された布袋を受け取って、希羅梨は背の高い和馬を見上げた。いつも眉間に寄っている皺が、今はない。ただ、労わるような視線を希羅梨に注いでいる。


 「阿部くん、何か買いに来たんじゃないの?」

 「いや、近くに来たからお前がいるかなと思って寄っただけだ」

 「私に何か用があった?」

 「別にねえよ」


 何でもないことのようにそう答える和馬に、希羅梨はぐっと唇を引き結んだ。希羅梨の胸の奥底で、何かが疼く。黒く汚れた恋心は全て捨てた筈なのに、だけどこんな時にはどうしようもなく痛くなる。

 ひどくうれしくて、ひどくせつない。用はないのに来てくれる、それだけで泣き出してしまいそうだ。

 和馬にしてみれば、友達がバイトしてるんだからちょっと覗いてみようかという程度の軽い気持ちなのだろうけれど、希羅梨にとっては重い。


 「自転車、ここに置いといてもいいよな?」

 「え?」


 ごみ箱の横に、見覚えのある自転車が置かれていた。ボディの色は、メタルシルバー。サドルの位置が高くて荷台がない自転車は、和馬のものだ。

 この自転車は和馬が高校に入学した時、通学用にと買ってもらったことを希羅梨は知っている。美和が、荷台がないから後ろに乗せてもらえないんだよと愚痴っていたから知っている。

 希羅梨は、和馬の自転車をまじまじと見つめた。風のように走るこの自転車を、希羅梨はずっと見てきた。ずっとずっと、見てきた。


 「店長に置かせてくれって声をかけといた方がいいか?」

 「自転車で帰らないの?」

 「お前、気分悪いんだろうが。バスで帰ろうぜ、それかタクシーにするか?」

 「……」


 高校一年の終わり頃から、この荷台のない自転車の後ろには時々セスナが乗るようになった。運動神経のいいセスナはステップに足をかけ、立ったままで危なげなく乗っていた。二人が一緒に帰って行くのを希羅梨は何度も見た。彼女を乗せていても和馬の自転車はやはり風のように速かった。


 「もっと端の方に寄せときゃいいか」


 独り言のようにそう言うと和馬は、自転車に寄って行ってその車体をひょいっと持ち上げた。コンビニの建物に対して直角に置いてあったのを、壁に水平に張り付かせるように寄せる。ゴミ箱の脇でもあるし、これなら誰の邪魔にもならないだろう。


 「阿部くん」

 「ん?」

 「自転車で帰ろう」

 「あ?」


 美和がいくら頼んでも、危ないからと和馬は自転車に乗せないらしい。和馬が後ろに乗せるのはセスナだけ、彼女だけなのだ。

 セスナは運動神経がいいから乗せるが、美和は運動音痴だから駄目だと言うのがその理由らしい。納得できる、もっともな理由だと思う。だけど……。


 「後ろに乗せてくれる?」

 「けど、お前……」

 「大丈夫だよ。これでも私、体育は5だよ」

 「いや、姫宮が運動神経いいことは知ってるけどよ、だけどお前は気分が悪いんだろ?」

 「だから、大丈夫だって言ってるじゃない。それに、バスの方が気分悪くなりそう」

 「あー……」


 確かに、具合の悪い時にバスになんて乗ったら酔ってしまうかもしれない。だからと言って自転車の方がいいなんてことは決してないだろうけれど、だけど二人が帰るには何か乗り物に乗らなければならない。夕日町まではここから歩いて帰れない距離ではないが、それこそ具合の悪い希羅梨が歩ける程には近くないのだ。

 ガシャガシャとチェーンを鳴らしながら和馬は、せっかく寄せた自転車をまた持ち上げた。ゴミ箱の前まで持って来て、かけていたロックを外す。そして、本当に大丈夫なんだなともう一度希羅梨に訊いて、希羅梨が頷くのを確認してから自転車にまたがった。


 「駄目だと思ったらすぐ言えよ。それと、絶対に落ちるな」

 「了解です」

 「しっかりつかまってろ」


 そしてメタルシルバーの自転車は希羅梨を乗せて、ゆっくりと走り出した。


 希羅梨を気遣ってだろう、和馬はいつもの半分もスピードを出していないようだった。それでも景色は飛ぶように流れる。

 希羅梨は、和馬の肩に置いた手に力を込めた。ゆっくりと走ってくれるから、軽くつかまっているだけで落ちる心配はなさそうだけれど、だけど力を込めた。


 景色が流れる、希羅梨の長い髪が風を受けてバサバサと鳴る。


 夏の太陽はすでに西の空に傾きはじめ、それでも眩く街を照らしていた。小さな洋品店の前を通った時、マネキンが飾られたショーウィンドーに二人の姿が映り込んだ。仲のいい恋人同士に見えた、その一瞬が希羅梨の瞼に焼きついた。


 うれしくてせつない、心が壊れてしまいそう。


 顔を空に向け、目を大きく開けて必死で耐えていたけれど、だけど涙は溢れてしまった。濡れた頬を拭いたくても、走っている途中で彼の肩から手を離す訳にはいかない。


 涙が希羅梨の顎の先からぽたりと、和馬の首筋に落ちた。

 ぽたり、ぽたりと落ちた。




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