156 My Little Princess
小堀町にある『polka dots』本店の自動ドアを虎二郎がくぐると、いらっしゃいませと水色の制服を着た若い女性の店員が頭をさげた。子供服の店におよそ似つかわしくない虎二郎を見ても僅かばかりの戸惑いも見せずに、贈り物でしょうかと丁寧に尋ねたあたりは草一郎の社員教育が行き届いている証拠だろう。
虎二郎は、ヨシ!とでも言うようにひとつ頷いてから、社長はいるかと訊いた。
『STAFF ONLY』のドアからバックヤードに入り虎二郎は、従業員専用のエレベーターで社長室のある五階まであがった。
電話せずに来たからダメ元だったが、どうやら運がよかったらしい。『polka dots』の営業から企画、広報まで一手に担当している草一郎を一発で捕まえられるなんて、滅多にないことだ。
トンと、ノックひとつで返事を待たずにドアを開けた。草一郎は、電話中だった。電話の相手は取引相手か、丁寧な口調で喋りながら虎二郎に入れ入れと手招きする。
「虎二郎、お前なぁ。日本に帰って来てどれだけ経つんだ?今頃挨拶に来るとは、いい度胸だな」
受話器をフックに戻した途端、草一郎は呆れたような口調でそう言った。虎二郎は、来客用であろう革張りのソファーにどっかりと座り、両腕を広げて背もたれの上にのせ、足を組んでふんぞり返った。
「兄貴、姉ちゃんと全く同じこと言うなよ」
「そら言うだろ、お前が帰って来たって美雨から電話があったの、もう二週間は前だぞ」
「その二週間、一度も家に帰って来ない親父に言われたくねえな。美雨、ほったらかしじゃねえか」
痛いところを突かれて、草一郎はぐっと詰まった。いつもならどんなに仕事が忙しくても栄と交代で美雨の様子を見に家に帰るのだけれど、虎二郎がいてくれるとわかっているとそれをサボってしまう。全く、返す言葉がない。
「今、特別に忙しいんだよ。実は、新しい分野に進出してみようかってことになってな」
「だからって、愛娘をほったらかしていい理由にはならねえな」
「……面目ない」
草一郎は内線でアイスコーヒーを二つと言いつけておいてから、虎二郎の前に座った。座ったと同時に、ふーっと長い息を吐き出す。
どうやら疲れているらしい、顔色も悪い。
「実家、行って来たのか?」
「ああ」
「鶴子は、相変わらずか」
「相変わらずだな、恐ぇよ」
「いつまでもぶらぶらしてないで、働けって?」
「おー、バシバシと殴られた」
怒られることがわかっているから兄と姉、特に姉に会うのを虎二郎は先延ばしにしていた訳だが、さすがにこれ以上は無理だと腹を括って実家を訪れたら、予想通りに頭から怒鳴られた。
お前はいつまで遊んでるつもりだとか、いい歳していい加減にしろよとか、言葉の端々で拳骨を振り下ろしながら姉の鶴子は、ものすごい勢いで怒鳴り散らしたのだ。
事業を全て畳んだとは言っても、先祖が残してくれた大切な土地を管理するという仕事が朝比奈家にはある。それを結婚もせずに女の身ひとつで見事にこなしている姉に、虎二郎は頭があがらない。この姉がいてくれるおかげで、虎二郎は自由に旅が出来るのだからあがる筈がないのだ。
「お前もいい加減、腰を落ち着けたらどうだ。うちで働け、労働しろ」
「俺に子供服を売れってか?」
「いや、今度は子供服じゃない。栄がウエディングドレスにはまっちまってな、それがあまりにいいデザインばっかだから勿体ないってんで、商品化してみることになったんだ」
「忙しいって、そのせいか?」
「まあな。お前が手伝ってくれたら、助かるんだけどな」
「ウエディングドレスなんざ、子供服以上に似合わねえだろ」
確かに似合わないと言って笑う兄に虎二郎は眉根を寄せた。本当に顔色が悪い、あまり寝ていないのだろうか。
世界一幸運なデザイナーにしてやるというのが、草一郎が栄に結婚を申し込んだ時にした約束らしい。栄が好きな仕事を思う存分やれる環境を作るのが、草一郎の使命なのだとか。
「兄貴、休んだ方がいいぞ」
「ああ、そうだな。今日はもう面接が一件あるだけだから、それが終わったら家に帰るか」
「そうしろ。兄貴が倒れでもしたら、美雨が泣く」
「お前は相変わらず、美雨贔屓だな」
「世界で一番可愛いな」
「それは俺のセリフだ、取るな」
「そんなに可愛いんなら、ほったらかすなよ。そのうち取られるぞ」
「あ、どういう意味だ?」
「美雨だって年頃だってこった」
「おい、虎二郎……まさか」
「美雨なら毎日図書館に通って、真面目に勉強してるぞ」
「そうか、そうだよな……そうだ、美雨は真面目だからな」
美雨に彼氏が出来たらしいことを草一郎に言うつもりは、虎二郎にはなかった。確かめた訳でもないし、もし虎二郎の勘が当たっていたとしても言うつもりはない。親父なんだから、自分で気づきやがれと思っているのだ。
「面接って、バイトでも雇うのか?」
「いや、今日の面接はプライベートだな。美雨の家庭教師だ」
「家庭教師?」
「ああ、随分前から頼まれていたんだけどな、なかなかいいのがいなくてな。やっぱり、身元がしっかりしてないと駄目だろ?」
「そりゃそうだ、家庭教師だったら家で美雨と二人きりになる訳だもんな。妙な奴は駄目だ、絶対に駄目だぞ」
「わかってる、だから見つからないんだ……虎二郎、お前が美雨に勉強教えてやれないか?」
「無理。三流大卒をなめんなよ、明条大なんて狙ってる美雨に何を教えろってんだよ」
「だよな」
草一郎が疲れた顔で溜息をついた時、ドアが軽くノックされて大柄な男がアイスコーヒーを運んで来た。草一郎の右腕、秘書の蜂谷國男だ。
「よぉ、ハッチ!元気そうだな」
「はい、虎二郎さんもお変わりなく」
國男は元々朝比奈家の先代の当主、つまり草一郎たちの父に仕えていた男だ。先代が亡くなり、事業を畳んでからはこうして草一郎の元で働いている。
國男はアイスコーヒーをテーブルの上に置くと、大きな体をかがめて草一郎に、面接の方がいらしてますと告げた。草一郎がすぐに通すようにと言うと國男は、ひとつ頷いてから部屋を出て行った。
「俺、どっかに行ってようか?」
「いや、お前もいてくれ。美雨の家庭教師だ、お前にも見定めて欲しい」
「よっしゃ!」
虎二郎はアイスコーヒーのグラスを持ち上げると、草一郎の方に回って来た。兄と並んで座って背筋を伸ばし、顔を引き締める。
可愛い可愛い姪っ子を、生半可な奴に任せる気はない。しっかり見極めてやると気合を入れて、家庭教師候補を待ちかまえた。
やがて、ドアをノックする音が聞こえた。草一郎がどうぞと言うと静かにドアが開き、顔を出したのは、『polka dots』の縫製担当の楓だった。
「社長ぉ、連れて来ましたぁ」
「ああ、御苦労さん。入って」
「はぁーい」
楓に続いて入って来た緩く癖のある茶色い髪の女に、虎二郎はポカンと口をあけた。
虎二郎だって男なのだから女に興味がない訳がない。だけどこれまで、虎二郎の興味は女よりもバイクやカメラ、そして世界に向けられていた。少なくとも三十年近く生きて来たうちで、虎二郎が女に見惚れたことなんてなかった筈だ。
「えっとぉ、私の後輩で、青蘭女子大学四年生のアルビナ・ロペスさんですぅ。アルはぁ、お父さんはスペイン大使館にお勤めのスペイン人でぇ、お母さんは日本人です。国籍はスペインだけど、もうずっと日本に住んでいるから日本語ペラペラでぇす」
おっとりとした口調で楓が簡単な紹介をすると、アルビナがすっと頭をさげた。それは、最近の若者にありがちな頭だけ申し訳程度にさげるおざなりなお辞儀ではなく、腰から体を折った、丁寧で品のある仕草だった。
「ええっと、アルビナさん?」
「はい」
じゃあ、おかけくださいという草一郎の言葉に従って、アルビナがソファーに腰をおろした。これも、実に優雅な身のこなしだ。そして、履歴書ですと茶封筒を差し出す。楓が言った通り、日本語の発音はきれいだ。アルトの、落ち着いた感じの声だった。
私は仕事に戻りますぅと言って楓は、部屋を出て行った。草一郎は受け取った茶封筒を早速開き、履歴書に目を通している。
そして虎二郎は、まだアルビナに見惚れていた。ポカンと口を開けたままの虎二郎にアルビナが翠の瞳を細めて微笑んだ。