154 真夏の太陽
約束した時間より三十分前も早く行ったのに、セスナが被服室の引き戸を引くとすでに市川博隆はミシンを出して何かを縫っていた。セスナが来たことに気づいてすぐに顔をあげ、おはようと言った博隆にセスナは、戸口のところに立ったままで腰から体を二つに折り、深々と頭をさげた。
「わざわざご足労願ってすまぬ、市川殿」
「いや、そんなことは全然気にしなくていいよ。それより、飛鳥井さんがやる気になってくれた方が僕は嬉しいから」
社交辞令ではなく、本当に嬉しいのだろう。博隆は、普段ではあまり見せないような柔らかい笑顔でミシンの前から立ちあがり、床に置いてあった紙袋をもちあげようとして急にその動きを止めた。
博隆の怪訝そうな視線が自分の後ろに注がれていることに気づいてセスナが振り向くと、そこには沢浪北高校の制服とは微妙に異なる制服を着た怜士が周りをキョロキョロと見まわしながら立っていた。
沢浪北高校の男子の夏服は、白いシャツに黒いズボンという実にシンプルなもので、怜士が通っている丸山台高校の制服も白シャツに黒ズボンだから、ネクタイをはずしてしまえばよく似ている。違いと言えば怜士のシャツには、袖に校章をかたどったエンブレムがついているくらいのものだ。
「あ……これは、田之倉怜士と言ってだな、見学と言うかその、ついて来てしまってだな……」
「えっと、飛鳥井さんの彼……じゃないよね?」
「もちろん違う!」
セスナの力いっぱいの否定が矢になって怜士にぐっさりと刺さったが、この学校にセスナの男がいることは重々承知していることなのだから、怜士はこめかみをぴくぴくと引きつらせただけで、何も言わなかった。
「何だ、その、だから、友達というか……お、幼馴染!そう、そんな感じだ」
セスナが怜士と初めて会ったのは中学一年の時のことだから、それを幼馴染と言っていいのかどうかは微妙なところだが、気心が知れているという意味では、幼馴染という言葉はしっくりと合っているような気がセスナはした。手芸部の部長が男で、二人きりで会うと言ったら冗談じゃねえと怜士はついて来た訳だが、それは単なる友達の域を越えているように思う。もっとも、友達より幼馴染の方がより上の立場なのかと訊かれたら、首をひねるところだけれど。
「へえ……わかった、田之倉くんだね?よろしく、手芸部部長の市川博隆だ」
うっすとか何とか言いながら、怜士がおざなりに頭をさげた。博隆も頭をさげるともうそれ以上は詮索する気がないらしく、床に置いてあった大きな紙袋を重そうに持ち上げて机の上に置いた。
「作りたいのは、ウエディングドレスだよね?」
「ドレスと言っても、そんなに大袈裟ではないものが良いのだ。丈の短い、ワンピースのような感じでだな」
「うん、大体のイメージはわかるよ。洋裁の本を持って来たから、この中から飛鳥井さんのデザインに近いのを探して参考にしたらいいよ。デザイン画は、出来てる?」
セスナは鞄をあけて、一冊のノートを取り出した。そして、これにしようかと思うのだがと言いながら付箋のはってあるページを開く。
「ああ、思ってた通り可愛いデザインだ」
「そ、そうだろうか?」
「飛鳥井さんらしいデザインだと思うよ」
「私らしい、だろうか」
ノートには、膝丈の白いドレスが描かれていた。ハイウェストで切り替えて、Aラインのスカートが裾に向かってふわりと広がっている。スカートについている水玉模様のような小さな丸は、布地の模様ではなくてビーズをひとつずつ縫いつけるつもりだ。
ショーのあとで見せてもらった栄のデザインを参考にしているけれど、もちろん真似をするつもりはない。何度も何度も描き直して、ようやくたどり着いたデザインがこれなのだ。
フリルやレースをつけるのは結構むずかしいと聞いていたから、極力シンプルにすることを心がけた。小さなビーズを縫いつけるのは手間がかかるだろうが、そんなに技量はいらないと思う。
「これなら、そんなに難しくないよ。素材はオーガンジーと、サテンがいいかな……シルクの方が上品な光沢だけど、高いからね。それに、シルクは縫いにくい」
博隆は、セスナのデザイン画を細部までじっくりと見た。胸元の布をレース地にしたらどうだろうかと、すぐにアイデアが湧き上がって来る。セスナから電話をかかって来た時には驚いたが、どうしても服を縫いたいのだと必死な声で訴えるセスナに博隆は、手伝うよと即座に答えていた。
自分が受験生だということは、もちろんよく知っている。
だけど、部員が助力を求めているならば部長として手を貸すのは当たり前のことだと博隆は思う。
「材料は、帰りに手芸店に寄るとして、とりあえずミシンの特訓から始めようか?」
「すまぬ、本当に恩に着る。ミシンさえ使えるようになったら後は自分で頑張るから、それまで世話になる」
「夏休み中の部室の使用届は出してあるからね、好きなだけ使ったらいいよ。ミシンの使い方を覚えて、型紙を起こすところまでつき合う。その後も、ちょくちょく見に来るから、心配しないで」
「そこまでしてもらう訳には!」
「構わない、言っただろう?飛鳥井さんがやる気になってくれて、僕は嬉しいんだ」
じゃあ、ここに座ってと博隆が示したのは、当然のことながらミシンの前だった。セスナはごくっと生唾を飲み込んでから、その一歩を踏み出した。
カタカタとミシンの音が響く教室の、窓際の席に座って怜士は黙って空を見上げていた。夏の太陽が輝いている、強く眩しく。
時折、「あ!」とか、「糸がからまった……」とか、セスナの声があがる。それに対して博隆は、「大丈夫、落ち着いて」と励ましながら丁寧にミシンの使い方を教えていた。
手芸部の部長が男だと聞いた時には、軟派な男もいたもんだと思ったが、どうやらいい奴らしいなと怜士は、考えを改めることにした。
それにしても暑い。怜士の学校と違って公立の沢浪北高校に冷房なんてものはなく、窓を開け放っているけれどミンミンとどこからか蝉の声が聞こえるだけで少しも風は入らない。大体、窓際なんかに座っているから暑い訳だが、だけど怜士は空を見上げ続けた。空のちょうど真ん中に輝く太陽が見える。遥か遠く、手の届かない場所で燃えている。
背中に汗がにじむ。
暑い、だるい、情けない。
セスナの目は今、真っ直ぐに夢を見据えている。ショーの帰りに泣いて泣いて、泣き叫んで、泣きやんだあとには目の色が違っていた。
服を作る、一着でもいいから自分の手でウエディングドレスを縫うと低い声で宣言したセスナに、怜士の胸には苦い何かが沸き起こって来た。
セスナは、怜士を見ない。
つき合っているという男さえ、今は見ていないかもしれない。
何でだよと、思ってしまった自分が情けなくて怜士は落ち込む。セスナの夢を全力で応援することなんて、怜士にしてみれば当たり前だ。セスナの望みなら何でも叶えてやる、セスナが服を作りたいというなら作らせてやる。
だけど、セスナは怜士を見ない。あの大きな目が見ているのは、遥か遠く、手の届かないところでキラキラと輝いている夢だけだ。
「で、出来たぞ!」
「うん、いいね。飛鳥井さん、コツが掴めて来たんじゃない?」
博隆に褒められて嬉しそうにはしゃいでいるセスナの方は見ずに怜士は、暑ぃと呟いた。真夏の太陽が容赦なく輝いていた。