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school days  作者: まりり
153/306

152 夏空の下、君の元に駆けて行く


 真っ青に晴れ渡った空の下を美雨は走っていた。


 右手にさげたバスケットが重いし、肩にかけた布袋も重い。美雨が走るのに合わせて、赤いチェック柄の水筒が跳ねて走りにくい。


 だけど、それでも美雨は走り続けた。


 まだ午前中だと言うのに、夏の太陽はもうジリジリと地面を焼いていた。汗が、こめかみから頬にかけて伝い落ちて来る。


 走る必要なんてない、そんなんじゃない。

 図書館は逃げないし、彼と約束している訳ではない。


 だけど、どうしても足が逸った。


 三日前のことだ、いくら勉強しようとしても調子が出なくて美雨は、もしかしたら環境を変えてみたらいいかもと思いついた。それでまず頭に浮かんだのは、あゆみの顔だった。

 一学期の成績が悪かったからと、この夏休みは必死で勉強しているらしいあゆみの家に行って、一緒に勉強したらいいかもしれない。そうすれば、あゆみのやる気が美雨にも移るかも……そこまで考えて、美雨は軽く頭を振った。


 美雨はよくても、あゆみには迷惑かもしれない。

 それに、あゆみは彼氏と一緒に勉強しているかもしれないし。


 仲良く勉強しているあゆみと清太郎の姿を思い浮かべて、美雨の胸が僅かに疼いた。あゆみが羨ましいなんて、つい思ってしまったのだ。好きな人と支え合って勉強できたら、受験なんて全然恐くないのではないだろうか。


 少しだけ考えて、美雨は机の上に広げていた勉強道具を布袋につめはじめた。勉強できる場所といえば、図書館だろう。本が好きな美雨にとって、図書館は子供の頃からよく行く馴染みの場所だ。

 今までは本を借りる以外に利用したことはないけれど、図書館の二階には自習室というものがある。そこで勉強しようと思い立って美雨は、一階の客間で座布団を枕に昼寝をしていた虎二郎に図書館に行って来ると声をかけてから家を出た。


 真夏の昼下がり、熱を放射してゆらめいているアスファルトの上を歩きながら美雨は、誰かと一緒に勉強できたらどんなにいいだろうと思った。一人が嫌な訳じゃないけれど、そうじゃないけれど誰かに傍にいて欲しい。

 今は虎二郎がいてくれるから本当に嬉しい、だけど虎二郎はいつふらりと旅立ってしまうかわからない。夏休みの間はいてくれると言っていたけれど、一所にじっとしていられない虎二郎はあと一、二週間もすればきっとそわそわしだすだろう。

 縛りつけたくなんてない、美雨は自由な叔父が大好きなのだから。


 歩きながら美雨は、恋人がいたらいいなとふと思った。

 生まれて初めて、そんなことを思った。


 阿久津に憧れて、いつかはその隣に立つことを夢見ているけれど、だけどそれはどこか現実味のないふわふわとしたものでしかない。けれど今、彼氏が欲しいと思う気持ちはひどくリアルだった。


 誰かと並んで歩きたい、その誰かとは……。


 図書館の入口の自動ドアを開けたところで、美雨は思わず立ち止まってしまった。自分の隣を歩いてくれる誰かをイメージすると、浮かんできたのは阿久津ではなかったのだ。


 後ろからすみませんと言われて美雨は、ハッと我に返った。入口を塞いでいたのを慌てて横に譲り、小さな女の子の手を引いている若い母親にすみませんと頭をさげる。親子の後姿を見送りながら美雨は、そうか図書館だからだと思った。


 この図書館で偶然、彼に会ったことがある。

 この春のことだ、彼は小さな妹を連れていた。


 だから美雨は、彼をイメージしてしまったのだろう。それとも、幼馴染であるあゆみと清太郎が仲良く一緒に勉強しているところを想像したから、自分の幼馴染の姿を思い浮かべてしまっただけかもしれない。

 そう納得すると、美雨の隣にいた雪都が消えた。優しい幼馴染のイメージが消えると、美雨は急に足元が頼りなくなった気がした。


 平気、一人で平気。

 子供の頃からずっと一人だったもん。


 心の中でそう自分に言い聞かせながら美雨は、二階に続く階段をあがった。そして、階段をあがったすぐのところにあった自習室と書かれたドアをそっと開けてみた。

 しんと静まり返った部屋だった、小さな机が同じ方向を向いてたくさん並んでいた。ひとつひとつの机に囲いがあるから座っている人の顔は見えないけれど、たくさんの人間がそこにいる気配は濃厚だった。


 ここは駄目だ、すぐに美雨はそう思った。ざっと見まわしてみると空いている席はなさそうだったけれど、もし空いていても座る気にはなれなかった。

 ここで勉強するくらいなら、家の方がずっといい。たくさんの人がいる中で孤独を感じるのは堪らない、美雨はそっとドアを閉めた。


 ゆっくりと階段を下りていると、上る時よりもっと寂しくなった。一人で平気、慣れているからと何度も心に言い聞かせるけれど、だけど寂しい。

 賑やかな虎二郎がいてくれるここ数日が楽しいだけに、終わりが見えて余計に辛い。

 優しい叔父は、あとどれくらい美雨の傍にいてくれるだろうか?寂しい、寂しさに押しつぶされてしまいそうだ。


 両親は仕事が忙しくて、子供の頃からほとんど家にいてくれなかった。通いの家政婦はいたけれど、目つきの鋭い冷たい感じのする人で、美雨はどうしても懐けなかった。


 美雨は一人だった、ずっと寂しかった。

 だけどその寂しさは、保育園で彼の隣にいる時には感じなかった。


 誰かと並んで歩きたい、そう思うと浮かんで来るのはやはり幼馴染の姿で。

 美雨が恐る恐る手を伸ばすと、ぎゅっと握ってくれるその手は大きくて。


 七夕祭りの夜、手を繋いで花火を見た時のことが思い出されて切なくなる。彼の手は大きかった、もうすっかり大人の男の人の手になっていた。彼はもう、雪くんじゃない。美雨がいつも平気で手を繋いでいた、小さな男の子ではなくなってしまった。

 本を借りるつもりはなかった、だけど美雨はほとんど無意識で閲覧室に入っていた。カウンターの前を素通りして、奥の方に行ったのも無意識だった。借りたい本があった訳ではない、そうではないのに美雨は一直線にそこを目指した。


 まるで何かに導かれていたようだったなんてことは、随分後になってから思った。角を曲がると、テーブルがあった。そしてそこに、柔らかな薄茶色の髪の男の子が座っていた。


 「……」


 雪都と目が合った瞬間、ドクンとひとつ大きく打ったなり心臓が止まった。また幻を見てるのかと思った、自分はどうかしてしまったと思った。


 これではまるで、彼に恋してるみたいだと思った。


 「あ……え、あ、あれ?」


 だけど、彼は本物だった。無表情なのもいつも通りで、真っ直ぐに美雨を見ていた。


 「う、あ、えっと……」


 頭の中がぐるぐると回ってるような気がした。だけど、いつまでも固まっている訳にはいかないのだから、何か言わなければならない。


 だけど、何と言えばいいのだろう?


 あれ、永沢くんじゃない。図書館で勉強してるの、毎日暑いね、とか言わなければならない。言わなければならないと思うのだけれど、だけど言葉は喉に引っかかってどうしても出て来てくれない。頭の中が真っ白で、何も考えられなかった。


 足が動いたのは、本能だろうか?

 美雨は、その場から無意識で逃げようとしたのだ。


 「あいてるぞ、そこ」


 踵を返して駈け出そうとしていた美雨の足は、そんな雪都の一言でまた動けなくなった。思わず振り向いたら彼は、腕を伸ばして自分の向かいの席を指差していた。


 「……え?」

 「勉強しに来たんだろ、そこ空いてる」

 「……」


 それだけ言うと彼は、何事もなかったように自分の勉強に戻ってしまった。

 七夕祭りの夜以来、ずっと気まずさを感じていたのは、美雨の方だけだったのだろうか?彼は、普通に話しかけてくれた。ぶっきらぼうな言い方だけど、それがいつもの彼の喋り方だ。

 お邪魔しますと、小さく口の中で呟いて美雨は雪都が指差した椅子に座った。今日は暑いねと、もう少しだけ音量をあげて言ってみたら彼は頷いた。たったそれだけのことで、美雨はなんだか嬉しくなった。


 「えっとね、えっと……あのね、二階の自習室がいっぱいでね」

 「自習室の席を取りたきゃ、朝イチで来ねえと無理だぞ」

 「あ、そうなんだ」


 彼は顔をあげない、美雨がいようがいまいが関係ないかのように勉強している。だけど、美雨が言うことにはちゃんと返事をしてくれる。それが嬉しい、どうしてかわからないけれどとても嬉しい。


 「ここで勉強しててもいいの?」

 「いい」

 「そうなんだ……」


 どうしてかわからないけど嬉しくて堪らなかったから、美雨は布袋から勉強道具を取り出した。帰るなんて欠片も思わなかった、ここにいようと思った。


 その日はそのまま二人向かい合って、閉館時間近くまで黙々と勉強した。勉強している間、ほとんど言葉を交わさなかった。だけどそれは気まずい沈黙ではなくて、美雨をとても安らがせてくれるものだった。


 子供の頃から雪都は、口数が少なかった。美雨と一緒にいてもペラペラと喋ることなんてほとんどなくて、何時間も一言も喋らずにいるのがいつものことだった。


 別々に好きなことをしながら、美雨と雪都はただ同じ部屋で長い時間を一緒に過ごして来たのだ。


 まるであの頃に戻ったみたいと思いながら、美雨は苦手な数学の問題に挑んだ。すらすらと解けた、自分でもびっくりするくらいに。雪くんパワーって凄いなんて、自分でも吹き出してしまうようなことを思った。


 閉館十分前のアナウンスに、二人揃ってシャーペンを置いた。二人揃って勉強道具を片づけ、二人揃って席を立った。

 帰り道も、ほとんど言葉は交わさなかった。夕方になったらちょっと涼しくなったねとか、そうだなとか、その程度しか喋らなかった。

 彼は、何も言わずに美雨を家まで送ってくれた。送ってやるよなんて言わないあたりが彼らしい。子供の頃からそうだった、人一倍恐がりな美雨を雪都はいつも黙って送ってくれた。

 変わらないなぁと、美雨は思った。彼の手はあんなに大きくなってしまってもう繋いだりは出来ないけれど、だけどそのわかりにくい優しさは少しも変わっていない。


 美雨を家の前まで送って、じゃあなと彼は帰って行った。『じゃあな』じゃなくて、『またな』と言ってくれたらいいのにと思って、そんなことを思った自分に美雨は驚いてしまった。


 夕焼けの中を帰って行く彼の背中を見送っていると、向かい合って勉強した数時間が美雨の胸の中で大きく膨れ上がった。だから美雨は次の日も図書館に行った、その次の日も行った。彼は、毎日同じ場所で勉強していた。


 昨日、いつも何時から来てるのと訊いてみた。朝からと、彼は答えた。十時過ぎには来てるなと。

 お昼はどうしてるのと訊いたら、近くのコンビニで何か買ってきて、外のベンチで食べていると言った。この図書館には、広くはないけれど中庭があって木や花が植えられている。そう言われてみれば、木陰には古い木製のベンチが置かれていた。

 あんなとこで食べたら暑くないのと訊いたら、すげえ暑いと雪都は顔をしかめた。図書館の館内は、飲み物の自動販売機が置いてあるロビー以外は飲食禁止だから仕方ないのだけれど、雪都のいかにも暑そうな表情を見て美雨は吹き出した。

 ロビーで食べたらと言ったら彼は、じろじろ見られるから嫌だと苦虫を潰したような顔をした。そのじろじろ見る人の大半は女の子なんだろうなと思って、美雨はくすくすと笑った。


 もっと一緒にいたい、もっともっと一緒にいたい。


 サンドイッチをたくさん作って、ピクニックバスケットに詰めた。彼がパンよりご飯の方が好きなことは知っているけれど、いかにもなお弁当よりもまずは手軽なものの方がいいような気がした。

 サンドイッチなら、ちょっと作ってみたのと言えるだろう。たくさん作っちゃったから食べてよなんて、自然に言えそうだと思った。

 赤いチェック柄の水筒には、冷たい麦茶を入れた。サンドイッチに麦茶はヘンかなと思ったけれど、暑いところで飲むことになるのだから、さっぱりした麦茶の方がいいような気がした。


 バスケットと水筒と、勉強道具の入った布袋を抱えて家を出た。彼は、もう来ているだろうか?

 美雨が朝から行ったら何と言うだろう、サンドイッチは食べてくれるだろうか。


 図書館は逃げないし、彼と約束をしている訳ではない。

 だけど、美雨は走った。

 前方に図書館の白い建物が見えて来ると、さらにスピードをあげた。


 自動ドアが開くのももどかしく飛び込んで、閲覧室に直行する。この時間なら自習室の席が空いてるかもしれないけれど、そんなことは関係ない。

 貸出カウンターの前を通る時、美雨は司書のお姉さんたちに軽く頭をさげた。毎日通ってるから顔を覚えてしまったこともあるけれど、どうやら自習禁止の閲覧室で美雨たちが勉強しているのをあのお姉さんたちが黙認してくれているらしいことに気づいてから、美雨はカウンターの前を通る時には頭をさげるようになった。

 書棚の角を曲がると、薄茶色の髪が見えた。そこで一旦足を止めて、走って来たせいですっかりあがってしまった息を整えてから美雨は、おはようと雪都に声をかけた。


 「……あ?」

 「おはよう、永沢くん」

 「何だ、今日は早いな」

 「うん、いっぱい勉強しようと思って」

 「張りきってんな」

 「張りきってるよ、明条大に合格するんだもん」


 あなたと同じ大学に行きたいからと、美雨はそっと心の中でつけ足した。


 雪都の第一志望が明条大の医学部だということは、ここで一緒に勉強するようになってから訊いた。それを訊いた途端、それほど行きたいと思っていなかった明条大に何が何でも合格したくなったのだから現金なものだ。


 だけど、彼の傍はそれほど心地いい。


 保育園から高校までずっと同じだった、これで大学も同じならどんなにいいだろう。学部が違うから同じ授業は受けないだろうけれど、それでも同じキャンパスに彼がいるだけでいい。


 「……それ、何?」

 「あのね、サンドイッチ作って来たの」

 「へぇ、相変わらずマメだな」

 「一緒に食べようね」

 「俺のもあんのか?」

 「もちろん!」


 バスケットと水筒は足元に置いて、美雨は布袋から勉強道具を出した。ノートを広げて筆記具を出してから、数学の問題集の付箋をつけたところを開く。


 「ね、永沢くん。これ……」

 「何だ、数学?」

 「うん。昨日の夜ね、一生懸命考えたんだけどどうしてもわからなかったの」

 「どれ?」


 これ、と問題集を差しだすと、雪都が手を伸ばして受け取った。わからない問題には、ピンクのサインペンで花の印をつけている。その問題を読んでいる雪都を美雨は、テーブルに肘をついて見ていた。

 伏せた睫毛の下には、グレーがかった不思議な色の瞳。光の加減によって明るくなったり深くなったりするその瞳の色を美雨は、とてもとてもきれいだと思った。



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