151 新しい朝
虎二郎がキッチンに入って行くと、ちょうど美雨がバスケットの蓋を閉じたところだった。テーブルの上には小さめのピクニックバスケットと赤いチェック柄の水筒、そしていつも美雨が図書館に行く時に持って行く布袋が置かれている。
虎二郎は、壁にかかっている時計を見た。短針と長針はちょうど直角に交わり、午前十時五分を指していた。
「何だ、美雨。今日は、朝から図書館か?」
「えっと……うん」
「図書館だと、そんなに勉強がはかどるのか」
「えーっと……えっとね、虎二郎おじちゃんのサンドイッチ、冷蔵庫に入ってるからね」
「お、俺の分も作ってくれたのか?」
「お昼に食べてね」
美雨は虎二郎から目をそらすと、テーブルの上に置いてあった布袋をさっと肩にかけ、水筒とバスケットを一緒に持ちあげた。
受験勉強をするために朝から図書館に行くのはいい、昼食にサンドイッチを持って行くのもいい。だけど美雨が抱えているバスケットの中身は、どうも一人分ではなさそうだ。
「帰りは、いつもぐらいか?」
「うん」
「んじゃ、ビーフシチュー作っといてやる」
「ホント?嬉しい、楽しみにしてる」
「おう。だから、頑張って勉強して来い」
何日か前のことだ、図書館で勉強して来ると言って昼過ぎに出かけて行った美雨が、夕方になって帰って来てからどことなく様子がおかしかった。どこがどうおかしいとは言えない程度のおかしさだったけれど、美雨と一緒に暮らしたことのある虎二郎にはすぐにわかった。
何かそわそわしてるな、そう思った.
そして次の日、昼過ぎになると美雨はまた図書館に出かけて行った。その次の日もまた行った。
そして今日は、朝から行くと言う。しかも、朝食の後でごそごそと作っていた弁当は美雨一人で食べきれなさそうな量と来た。
こりゃ、もしかしするともしかするか。
近々、兄貴の泣き顔が見れるかもな。
そう思うだけで吹き出しそうになるが、虎二郎は何でもない顔をした。まだ美雨が隠しておきたそうだから、気づいてないふりをしてやる。
美雨なら、いつか自分から図書館で出会った彼氏を虎二郎に紹介してくれるだろう。その時には、せいぜい驚いてやろうと思う。
どんな男かこっそり覗きに行きたい気持ちはある、ものすごくある。だけど、やめておこうと思う。
可愛い姪っ子が悪い男に騙されてないかと心配ではあるけれど、だけど今のところ図書館で一緒に勉強して、弁当を食べる程度の可愛らしい交際のようだから放っておくことにする。
もしも美雨が泣いて帰って来るようなことがあれば容赦はしないが、だけどここ数日の美雨はひどく可愛い。美雨が可愛いなんて前からだけど、だけど図書館に通いだしてからはもっと可愛くなった。
美雨があんなに幸せそうなのに、水を差すことなんて出来ない。理解ある叔父としては、ここは黙って見守るのが最良だろう。
七年前、美雨が小学校四年生の時のことだ。当時大学生だった虎二郎は、兄である草一郎に頼むと言われた。
家に来て、美雨と一緒に暮らして欲しい。落ち着くまででいいから、美雨には何も言わずにそうして欲しいと頭をさげられた。
美雨が学校でひどいイジメにあっているということ、体育倉庫に閉じ込められて、下手をすれば命に関わるような事件があったことを聞いたら、虎二郎だってじっとしていられなかった。美雨は虎二郎にとって、たった一人の可愛い姪だ。美雨をいじめた奴らをぶん殴ってやりたかった、だけどそれは我慢するしかなかった。
事件のショックで美雨は、記憶を失くしていた。恐かったことも苦しかったこともせっかく忘れているのだから、そこには絶対に触れてくれるなと草一郎は言った。自分か栄が仕事を休んで美雨についてやらないのは、そのせいだとも言った。
それまでほとんど家にいなかったほど忙しい両親が急に仕事を休んだら、美雨は不思議に思うだろう。その疑問が、記憶を呼び覚ます切欠にならないとは限らない。だから、気ままな大学生のお前に頼みたい。お前なら、鶴子と喧嘩したからしばらくここに置いてくれとでも言ったら美雨は疑わないと。
虎二郎は、大学を卒業するまでの一年と少しをこの家で暮らした。本当はそんなに長くいるつもりはなかったのだけれど、美雨と二人の生活は虎二郎にとっても楽しいものだったのだ。
「明条大を受けるんだろ?」
「うん……だけど、かなり頑張らないと無理っぽいんだ」
「じゃあ、頑張りゃいいだろ」
「そうだよね。うん、頑張る」
明けない夜はない、必ず朝は来る。
いじめられていた辛い記憶を体のどこか奥底に眠らせたままの美雨にも、新しい朝は来るのだ。
よし、頑張って来いと虎二郎は美雨の背中をぽんと叩いた。
今日の美雨は、茶色い水玉のワンピースを着ている。袖なしでシンプルなデザインだから普段着ですと言っても通るような服だが、だけど図書館にちょっと勉強しに行く格好ではないだろう。
一昨日より昨日、昨日よりも今日と、美雨はどんどんと可愛くなる。こんなに可愛かったら、相手の男がたまらず襲うんじゃないだろうか。図書館に通っているくらいだから真面目な男だろうと思うが、だけど男は男だ。
「じゃあ、行って来るね」
「お、おう……」
やはりこっそりと後をつけて、相手がどんな男か確認すべきか……虎二郎は、唇の端をひくひくと引きつらせながら、軽い足取りで出かけて行く美雨を外まで見送りに出た。
これが草一郎なら何が何でも後をつけるだろうが、虎二郎は理解ある叔父だ。一緒に暮らした一年と少しの間に『可愛い姪っ子』だった美雨は、『ものすごく大切なかけがえのない可愛い可愛い姪っ子』にグレードアップしたが、それでも虎二郎は理解ある叔父なのだ。
「けどな、美雨が泣いて帰って来たら遠慮なくぶん殴りに行くからな」
この虎二郎の不穏な独り言は、玄関を出たらすぐに駆け出した美雨の耳には届かい。真っ青に晴れ渡った夏空の下、水玉のワンピースを着た美雨の後姿がだんだん小さくなって行った。