150 熱、未だ冷めやらず
夕暮れの色に染まった街を、セスナはひたすら走っていた。何度も人にぶつかりながら、だけど走ることはやめない。ショーウィンドーにライトがつき始めた華やかな店が立ち並ぶ通りを、息をするのも忘れたように走る。そうすれば、胸を焦がす痛みが吹っ切れるかのように。
「おい、セスナ!どうしたんだ、おい!」
追いかけて来る怜士の焦った声が、遠く近く雑踏に混じる。通りに止めた車から大きくて重そうな段ボール箱を抱えて出して、店に運び込もうとしていた若い男の店員の鼻先をかすめてしまってセスナは、危ないだろうと大声で怒鳴られた。
どうしてこんなに走っているのか、セスナは自分でもわからなかった。だけど体の奥底から突き上げて来る衝動があまりに強くて、じっとしていられない。
ドク、ドク、ドクと、体中が心臓になったように悲鳴をあげていた。
熱い、助けて、痛い、止まれない。
誰か助けて。
セスナは、走りながら何かを掴もうとでもしているように前方に手を伸ばす。だけど、何も掴めない。空気すら、セスナの手の中には残りはしない。
今日、子供服の新作発表ショーを観に行った。怜士は里美を通じて、ファッションショーを観に行くからセスナを借りると、有りのままを告げて柊也から外出の許可を取ってくれたのだ。
よく考えてみれば、ファッションショーなんて何も嘘をついて隠さなければならないようなものではなかった。セスナは年頃の娘なのだから、ファッションに興味があってもおかしくない。子供服のショーではあるけれど、ファッションショーはファッションショーだ。
平日の午後に行われたバイヤー向けのショーは、セスナが予想していたよりも遥かに素晴らしかった。子供服雑誌の主催で、何社かの子供服メーカーの合同ショーだったが、セスナの目を釘付けにしたのはやはり『polka dots』の服だった。
秋冬ものだからモノトーンの服が多いのかと思えば、そんなことはない。ウールやボア、ベルベットなんかの冬ならではの素材の他に、シルクやシフォンのドレスもあった。ふわりとスカートが丸く膨らんだ花のつぼみを想わせる白いワンピースには、会場にざわめきが起こっていた。大胆なデザインなのに、どうしてあんなに上品で可愛らしいのか。本当に、肺の中がからっぽになるくらい溜息が出た。
ショーが終わった後、セスナは栄のイメージで選んだオールドローズの花束を抱えてバックステージに向かった。通りかかった雑誌社のスタッフらしき男に名を名乗り、『polka dots』の社長かデザイナーに会いたいと言ったら、すぐに草一郎が出て来てくれた。
「飛鳥井サン、来てくれたんだ」
「草一郎殿、ご招待していただいて感謝する。素晴らしいショーだった、特のあの白い……」
「おっと、感想は栄殿に言ってやって。褒められるの大好きだから、張りきって頼むよ」
そんな風に軽くおどける草一郎に連れられて、セスナは怜士を伴ってバックステージに通された。幾人ものスタッフがせわしなく後片づけをしている片隅で、栄と楓と健吾、それにパターンナーのエリが紙コップでお茶を飲んでいた。
「飛鳥井さん、来てくださったのね」
「栄殿、素晴らしいショーだった」
セスナが贈ったオールドローズの花束に、栄は嬉しそうに目を細めた。花束をもらうなんてパリコレのデザイナーになった気分とはしゃいで見せてから、セスナに丁寧な礼を述べる。
「もしかしてそちらは、飛鳥井さんの彼かしら?」
「いや、その……」
口ごもるセスナに代わって怜士が、付き添いですと答えた。それで怜士を飛鳥井家の使用人と間違えたのか、栄はさすがに飛鳥井家のお嬢様ねと感心したように言った。セスナが見学に来た時には栄は、セスナが飛鳥井財閥の令嬢だとは知らなかったのだが、あとで娘の美雨にそうだと聞いたらしい。
「気に入った服は、あったか?」
そう訊いたのは、健吾だった。紙コップのお茶をエリが手渡してくれるのを受け取りながらセスナは、強く頷いた。
「白いワンピースが素晴らしかった、まるで花の妖精のようだった」
「スズランね、あれは自信作なの!」
ぱあっと笑顔を輝かせた栄に対して、健吾はハァっと息を吐く。あのスカートのふくらみを出すのに何日徹夜したかとか、先生は言うだけだからいいよなとかブツブツと文句を言っている。だけど、栄は涼しい顔だ。
「あのスカートはね、裾をしぼって丸みをだしてるんだけど、子供服は歩きにくかったら駄目なの。大人だったらタイトなスカートをはいていれば歩幅を気にして歩くけど、子供はそうじゃないでしょう?だけど、裾をゴムにはしたくなかったのよ、形が崩れちゃうから。だからね、健吾くんには頑張ってもらっちゃった」
「あのスカートはねぇ、元気よく歩くとふわっと上に跳ねあがってもっと膨らむんですよぉ。モデルさんは静かに歩くから、ショーではあまり膨らまなくて残念でしたぁ」
おっとりとした楓の説明に、セスナは目を見張った。スズランという名前らしいドレスを着ていたモデルは、スカートの下にレースのついた三分丈ほどのズロースをはいていた。あれは、スカートが跳ねあがったら見えるようにだったのかと気づいて、セスナは感動してしまった。
「ウエディングドレスのようだった、真っ白で……」
「お、鋭い」
セスナの言葉に合いの手を入れるように健吾がそう言うと、栄がフフフと笑った。そして、手に持っていた紙コップを置くと、テーブルの下に置いてあった大きめのバックを持ち上げた。
「実はあれね、ウエディングドレスのデザインを子供用にアレンジしたものなの」
そう言いながら栄がバックから出したのは、B5判サイズのノートだった。パラパラとめくり、ほらこれよと開いて見せてくれたページにはスズランと似たデザインの、だけど大人用のドレスが描かれていた。
「ガーデンウエディングにいいかと思って、デザインしたものなのよ。どうかしら、飛鳥井さんならどんなウエディングドレスを着たいかしら?」
「ウ、エディング、ドレス……」
「丈の長いドレスや、カラードレスも何点かデザインしてみたんだけど、意見を聞かせてもらえると嬉しいわ」
栄からノートを受け取り、セスナはそのデザイン画を見た。見てしまった。ガクガクと手が震えた、後ろから覗きこんだ怜士が驚いてセスナの二の腕を掴んだ。だけど、セスナの震えは止まらなかった。
「飛鳥井さん……もしかして気分が悪い?」
栄にそう訊かれたのは覚えている、だけどセスナはその後、自分がどうしたのかはよく覚えていない。これで失礼すると頭をさげたような気がする、お邪魔しましたと言ったような気もする、だけど覚えていない。
気がつけば、走っていた。青信号が点滅している信号を強引に渡り、人の波を縫うように走り続けた。セスナ、どうしたんだと怜士の声が、遠く近く追いかけて来る。
それは、衝撃だった。
まるで雷に打たれたように、セスナは頭の天辺から体を刺し貫かれた。
栄が何気なく見せてくれたノートには、セスナが探し求めていたものがあった。
子供服も可愛い、セスナがずっと夢見ていたような洋服たちだ。だけど、本当にセスナが求めていたのは子供服ではなかった。ウエディングドレス、それこそがセスナの夢そのものだった。
この手でウエディングドレスをデザインしたいのか、それともこの手で縫いたいのか、それさえもわからずにただひたすらセスナは走っていた。母親に手を引かれて歩いていた男の子が振り向き、すごい勢いで走って来るセスナに気づいて身をすくめた。
「わっ!」
細い路地から出て来たスーツ姿の大柄な男とまともにぶつかって、小柄なセスナは弾かれて転んだ。歩道に倒れ、すぐに上半身は起こしたけれど、ここまで無茶苦茶に走って来たから息が切れてすぐには立ち上がれない。大丈夫ですかと、こちらはセスナにぶつかられて少しよろめいたけれど転ぶことはなかったスーツの男が手を延べてくれたけれど、セスナはまともに返事をすることも出来なかった。
「セスナ!」
そこに、怜士が追いついて来た。地面に足を投げ出して座り込んでいるセスナの両脇に後ろから手を入れ、ひょいっと立たせる。そして、ぶつかってしまってすみませんでしたとスーツの男にきっちりと腰を曲げて頭をさげてから怜士は、セスナの方に向き直った。
「セスナ、一体どうしたんだよ?」
そう訊かれても、返事は出来ない。息が切れてしまっているせいだけではない、自分でもどうして走ったのかセスナにはわからなかった。
怜士はセスナの右手首を掴んで、肘を曲げさせた。転んだ時に地面に擦ったらしい、擦り傷から血が出ていた。
「お前って、いつも色んなことを我慢してっから、ストレス溜まってんじゃねえのか?」
セスナの傷を見て、怜士が目をすがめた。セスナはまだ息が整わなくて、波打つように肩を上下させていた。
……ストレス?
そうじゃない、そんなんじゃない。
この胸に熱い衝動がある。セスナをつき動かす、力の源がある。
作りたい、この手で生み出したい。純白のドレス、花のような。
うわ―っと、セスナがいきなりあげた声があたりに響き渡った。ぎょっとした怜士に飛びかかりセスナは、その胸に縋りつく。
「セ、セスナ?どうした、何で泣いて……」
夕暮れの街、昼間の熱気はまだ冷めやらず。人波がセスナと怜士を遠巻きに避けて、好奇の目を向けながら流れて行く。
セスナは、声をあげて泣いた。姉を喪った時ですら、こんな風には泣かなかったのに。
「セスナ、どうした?何で泣いてんのか言ってみろ、俺が何とかしてやっから」
怜士は戸惑いながらも、泣きじゃくるセスナの背中をポンポンと優しく叩いた。
道行く誰もがひそひそと囁きを交わしながら二人を見て行くけれど、そんなことには気づきもせずに怜士は、まるで小さな子供を宥めるようにセスナの背中を叩き続けた。