149 初恋の味
迎えだぞと、担任の御手洗寛治の声に振り向いた元気は、窓から浅黒い顔を覗かせてニカッと歯を見せて笑っている朔夜に眉根を寄せた。
元気の保育園のお迎えは、梶原家では紗奈の担当と決まっている。紗奈が学校の用事などで来れない時には、寛平が来る。
店番をしなければならない朔夜が迎えに来たことなんてこれが初めてで一瞬、紗奈や寛平に何かあったのかと思ったけれど、例えば紗奈が熱を出して倒れたとか、寛平が怪我をして来れなくなったとか、そんな理由で代わりに来たにしては朔夜は笑っている。
そういえば、今日は店が定休日だったなと思いだして、元気はよっこらせと立ち上がった。晴音は新しく来たお手伝いさんだとかいう男と手をつないでとっくに帰って行ったから、じゃあなと手を振る相手もなく元気は黄色いカバンを抱えて黙って外に出た。
「紗奈は?」
「紗奈の友達とやらが来ていて、楽しそうにしてたから紗奈の代わりに私が迎えに来た。どうだ、驚いたか?」
「別に」
何だ、つまらんなどと言う朔夜は無視して、元気は汚れた運動靴を履くとさっさと歩き出す。気ィつけて帰れーと背中にかけられた、寛治の声も無視してずんずんと歩を進めた。
「どこかで何かおやつを食うか、腹が減ったろう?」
「別に……帰ったらすぐ晩飯じゃねえかよ」
「甘いものは、別腹だろう」
「甘いモンなら、家で食う」
「それはそうだな、帰って英介の菓子を食うか。いや、紗奈が何かこしらえておったようだから、相伴にあずかれるかもしれんぞ」
「紗奈が?」
思わず足を止めて振り向いた元気に、朔夜はやはりニカッと笑う。その顔は、面白がっているようにも、からかわれているようにも元気には見えた。
「おう、そうだ。英介に厨房を借りて、その友達とやらと何か楽しげに作っておった」
「あいつに友達って、珍しいな」
「確かに、紗奈がうちに友達を連れて来たのは初めてだな」
「………」
「元気も連れて来ていいぞ、何とか言うガールフレンド」
「誰だよ、それ」
「何という名前だったか……ルルネ?」
「晴音だ、晴音」
「その、ハルネだ。連れて来い、菓子を好きなだけ食っていいと言えば釣れるだろう」
「釣ってどうすんだよ……つーか、ガールフレンドって何だよ」
「照れるな照れるな」
「違うっての」
担任の寛治や、隣のクラスの千歳大志も今の朔夜と同じ顔で元気をよくからかう。まるで元気が晴音に片想いでもしているかのように言うのだ。
まったく、大人という生物はえてして単純でガキっぽいと元気は思う。もしかしたら、元気の周りの大人だけがこんなにガキっぽいのだろうか?地球規模で大人たちがみんなガキっぽいのだとすると、この星もそう長くないかもしれない。
元気が晴音に構うのは、ただ単に放っておけないだけだ。他の子供たちに馴染めずに浮いている晴音を元気はどうしても放っておけない。母親に捨てられた紗奈が養護施設に馴染めずに浮いていたのと重ねている訳ではないのだけれど。
「……同じクラスの奴か?」
「何?」
「今、来てる奴」
「紗奈の友達か?学校は違うと言ってたぞ、同じ学年らしいが」
「……」
梶原家に引き取られてから、紗奈は明るくなったと思う。だけど、人とつき合うのが苦手で、引っ込み思案な性格はそうそう簡単には変わらない。学校でいじめられている様子はないけれど、だけど特に仲のいい友達もいなさそうだ。
そんな紗奈が、いきなり友達を連れて来たらしい。
元気にとっては、寝耳に水だった。しかも、同じ学校じゃないというのはどういうことだろう?どうやって知り合ったのか、変な奴じゃないだろうか。
元気は、足を速めた。斜にかけた黄色いカバンが腰のところでポンポンと跳ねるのも構わず、角を曲がって店が見えるところまで来ると走り出す。
こら、待てという朔夜の声は聞こえたが無視して元気は、シャッターのおりている店先を駆け抜けて裏にまわった。店の入口とは別の、居住スペースの玄関の方から家に飛び込むと、確かに甘い匂いがしていた。
もっともここはケーキ屋を営む家なのだから、甘い匂いならいつもしているのだけれど、だけど今日は定休日だ。
紗奈は、店の厨房を借りて何か作っているらしい。家族の食事を作るキッチンとは別に、この家にはケーキ専用の厨房があるのだ。そちらの方に行こうと廊下に飛び出した元気は、そこで皿を掲げるように持った紗奈とはち合わせた。
「あ、元気くん、おかえり」
紗奈は元気を見ると、にっこりと笑った。そして、見て見てと皿を元気の方に差し出す。
「クッキー、焼いたんだよ。元気くんも一緒に食べようよ」
「お、おう……」
皿を持ったままで居間に入ると紗奈は、美和ちゃーんと元気の知らない名前を呼んだ。クッキーの皿を座卓に置いて、こっちの部屋で食べようよと言いながらすぐに取って返す。
こっちこっちと言う紗奈に、はーいと返事が返って、パタパタと足音が近づいて来た。そして、ぴょこんと襖の影から顔を出したのは紗奈と同じくらいの背丈の、ショートカットが似合う女の子だった。
「あのね、阿部美和ちゃんだよ。美和ちゃん、元気くんだよ」
紗奈の簡単な紹介に美和は、はじめましてと頭をさげた。だけど元気の方は、頭をさげることはしなかった。いや、しなかったというより出来なかったのだ。
「元気くんて、弟?」
「えっとね、弟じゃないの」
「そうなんだ?」
「うん、そう」
紗奈と元気は梶原夫婦の里子であって、養子ではない。だから紗奈は今でも清水の姓を名乗っているし、元気だって戸田のままだ。
苗字が違うのだから、姉弟とは言えないだろう。そのあたりのことを説明しようと思うと、どうしても長くなってしまう。別に隠すようなことでもないから訊かれたら説明するが、だけど美和はどう解釈したのかそれ以上は何も訊かなかった。何も訊かずに、元気の頭の上にポンッと手を置いた。
「元気くん、クッキー一緒に食べようよ」
カーッと、元気の顔が一気に赤くなった。何がどうなったのかわからないがとりあえず、美和の周りにチカチカと星が瞬いているのは何なのか。
「ナッツクッキーなんだけど、好きかな?」
そして、駄目押しとばかりに美和の笑顔が炸裂する。
おひさま保育園指定の水色のスモックを着て、黄色いカバンを斜にかけたままで元気は固まっていた。頭のてっぺんから湯気が立ってんじゃないかと思うほど、顔が熱い。
要するに、これが俗に言う一目惚れというやつな訳だ。
しかも、まごうことなき初恋である。
お、美味そうに焼けたなと朔夜が入って来たことによって何とか金縛りが解けた元気は、ぎくしゃくと座卓の前に座った。どうぞと薦められたクッキーにおずおずと手を伸ばし、口に放り込む。
「おいしいかな?」
美和に心配そうに訊かれて元気は、ぶんぶんと首を縦に振った。だけど実のところ、クッキーの味なんてわかりはしなかった。