147 太陽に向かって咲く花
「へえ、じゃあ女の子たちは全滅なんだ?」
器用に携帯を肩と頭で挟んで、シャツに袖を通しながら真琴は苦笑いを浮かべた。それはさぞかし創太が泣いているだろう、あの熱血青春男はこういうイベント事になると無駄に張りきるのだから。
「それで、男だけで行くの?」
電話の相手は伊佐美だ、低くて深みのある声がいいやと答える。
「そうか、中止か。うん、了解。また連絡する」
真琴は電話を切ると、それを片手で持ったままでシャツのボタンをとめた。一番下のボタンが取れかけていたけれど、構わずそれもとめてから寝室を覗く。
「ミナコさん、ぼく帰るから」
カーテンを閉めきった薄暗い部屋で、ベッドの上のシーツのふくらみが「んー」と眠たげな声をあげた。最近は仕事が忙しいらしいから、たまの休みくらいはゆっくりさせてあげようと真琴は、音を立てないようにそっと寝室のドアを閉めた。
預かっている合鍵で鍵をかけ、エレベーターに向かう。別にあの家に帰る必要なんてないのだけれど、だからと言って恋人の部屋にずるずると住み着いてしまうのも嫌な気がして真琴は、下から上がって来たエレベーターに乗り込み、『1』と描かれた四角を押した。
携帯で時間を確認してみると、午前十時を少し過ぎたばかりだ。この時間なら、あの人はもう仕事に出かけていないだろう。今日は日曜日、デパート勤務の母が絶対に休めない日だ。
そこまで考えて、真琴は苦笑いを浮かべた。留守を狙って帰るなんて、なんとも子供じみている。母親なんて、いてもいなくても気にならない神経が欲しいところだ。
エレベーターが一階に着き、真琴は歩き出した。マンションのエントランスを抜けて外に出ると、まだ午前中なのにもう日差しは強い。どこかで蝉が鳴いている、七日しかない人生の短さを嘆くように。
マンションを出て、角をひとつ曲がればすぐに大通りに出る。あの若さでこんな一等地のマンションで優雅に一人暮らししているのだから、自分の恋人ながら彼女は大したものだと思う。いや、もう三十路が目の前なのだから若いとは言えないか。つき合い始めたのは真琴が中学三年の頃で、ひとまわり年上の彼女は二十六歳だった。もう三年も前のことになる。
右側に、ひっきりなしに行きかう車の排気音を聞きながら歩道を歩く。暑い、歩きだしてまだ数分しか経っていないのにもうこめかみに汗が滲んでいる。その不快さに真琴はふっと息を吐いた。来年の夏には、こんな暑さに焼かれることはないだろう。北海道は湿気が低く、過ごしやすいらしい。
友達から口々に訊かれた、どうして北海道の大学なんか行きたいのかと。真琴は、そう訊かれるたびに涼しそうだからと答えた。本当に、北海道を選んだのは涼しそうだからという理由だからだ。
あと、遠いからという理由もある。
交通費が馬鹿にならないからというのは大学の四年間、一度も帰省しない言訳に使えるだろう。大学を卒業して、そのまま北海道に就職するのもいいかもしれない。とにかく、暑いのはもうこりごりだ。十八年間も我慢して来たのだから、そろそろ勘弁して欲しい。
彼女は仲間たちとは違い、どうして北海道なのとは訊かなかった。ただ、あらそうと一言答えただけだった。じゃあこれでさよならねとか、そんな言葉さえなかった。あらそうと、たった一言で終わった。
彼女には、感謝している。彼女の部屋はこの三年間、真琴のシェルターだった。あんたなんて産むんじゃなかった、早く出て行ってよと、ことあるごとに怒鳴り散らす母から守ってくれた。
もう半年もすれば、母の長年の望み通りに真琴は出て行く。この街に戻るつもりはない、こんなに暑い夏はもう二度と御免だ。
花屋の店先に黄色い花を見つけて、真琴は足を止めた。ひまわりと言えば人の背丈ほどにもなるという印象が強いのに、小さな鉢植えに植えられたそれは三十センチほどの高さしかなく、花も手のひらサイズだ。ミニひまわりと書かれた値札になるほどと納得して、これくらいならマンションのベランダでも育てられるなと思った。
彼女……ミナコさんは、薔薇や大輪の百合の花なんかが似合う華やかなその雰囲気に似合わないことに一番好きな花はひまわりだといつか言っていた。真っ直ぐに太陽に顔を向けて咲くひまわりが好きだというのは、それはそれで彼女らしいような気がした。
いらっしゃいませと店の中から、グリーンのエプロンをつけた真琴と同じくらいの年頃の女の子が出て来た。アルバイトだろうか、それともこの店の娘なのだろうか。どちらにしても花が好きなことがひと目でわかる。そのひまわり可愛いでしょうと、にっこり笑ったその笑顔でわかる。
そうですねと笑い返して、だけど買うことはせずに真琴は歩き出した。恋人だけど、彼女と真琴は花なんて贈るような関係ではない。ひとまわり年上の彼女に真琴が甘えているだけの、恋愛とも呼べないような代物。
ジリジリと強さを増す日差しに首筋を焼かれながら、人の流れに上手に乗って真琴は歩く。ひっきりなしに行きかう車の排気音がうるさい、だけど蝉の声の方がもっとうるさい。
この街は煩わしい、十八年間も我慢して来たけれどもう限界だ。
こめかみから流れ出した汗を手の甲で拭った時、シャツの胸ポケットで携帯が震えた。フラップを開けてみると、車の排気音よりも蝉よりもうるさい友人の名前が表示されている。
どうせ海行きが中止になったことへの泣きごとを聞かされるのだろう、あの熱血青春男はこの街より数万倍は煩わしい。
苦笑いを浮かべて、真琴は通話ボタンを押した。まーこーとぉー、と案の定、地の底から這い出して来たような創太の泣き声が聞こえて来た。