146 くじら雲
くじら雲だ、という声に道場の裏口を出たところにある階段に座って汗を拭いていた和香は振り向いた。空手着姿で、肩にタオルをかけている春樹が空を見上げていた。
「ほら、くじら雲」
「くじら雲?」
春樹が指さす方を見やると、青く晴れ渡った空にぽっかりと白い雲の固まりが浮かんでいる。
「あれ?」
「そう、くじらに見えるでしょ」
「そうかなぁ?」
そう言われてみればくじらの形に見えないこともない、だけどただの雲の固まりじゃないかとも思う。
「見えるって。ほら、あそこんとこなんて尾ひれに見えない?」
「んー?」
何かをよく見ようとすると、和香は目つきが悪くなるらしい。五年生になってから少し視力が落ちたのかもしれない、黒板の字が見にくくなった気がするし。
そんな顔するとお兄ちゃんとそっくりだよなんて、このまえ美和に言われてしまった。兄妹なんだから似ていて当たり前なのだけれど、だけどいつも眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をしているあの兄に似ていると言われるのはあまり愉快ではない。
くじら雲の尾ひれを見ようと目を細めていたことに気づいて、イカンイカンと和香は指で眉間に寄った皺をぐりぐりと伸ばした。
「あー、ここはちょっと涼しいな」
そう言いつつ春樹が階段を数段降りて、和香と同じ段に並んで座った。木が鬱蒼と生い茂っているおかげで影になる上に、高台だから風があって確かに涼しい。春樹は汗の引かない顔に風を受けながら、持ってきたスポーツドリンクのペットボトルの蓋を開けた。
「春樹ちゃん、受験生なのに空手なんてしてていいの?」
「宮田さんがギックリ腰だってんだから、仕方ないじゃん」
「師範代がギックリ腰って……」
この道場で師範代として小学生クラスを教えている宮田という男が、ギックリ腰で入院したのは和香たちが夏休みに入ってすぐのことだった。急遽、小学生クラスを教える師範代代理として呼び出されたのが宮田の妹弟子にあたる春樹だったのだ。春樹は受験が終わるまで道場を休むことにしていたのに、お人好しにも兄弟子の頼みをふたつ返事で快く引き受けたらしい。
「余裕?」
「余裕な訳ないじゃん、英語がやばいんだよね」
「和兄なんて、毎日すごい勉強してるよ」
「あー、和馬とは比べんな!あいつは、医学部志望でしょうが。私は、どこでもいいからそこらの私大に引っかかれればいいんだよ」
「体育大?」
「か、教育大」
「先生になんの?」
「そ、体育のね」
春樹なら空手で推薦をもらうことも、そのまま空手一筋で生きていくことも可能なのに、先生になりたいなんて欲ないのかなどと思いながら和香はスポーツドリンクを飲んでいる春樹の横顔を見つめた。
「……セスナちゃんは?」
「ん?」
「セスナちゃんはどこの大学受けるか、知ってる?」
「さあ、訊いてないなぁ。和馬と同じ大学じゃないの?」
こんな風に答えるところを見ると、春樹は何も知らないのだろうか。セスナが家に遊びに来なくなってから、もうかなり経つ。
「和香は海、行くの?」
「海って、和兄が言ってたやつ?」
「そう、来週の水曜だっけ」
「空手の日じゃん」
「あんたは別に一日くらい休んだっていいでしょうが」
「春樹ちゃんは、行かないんでしょ」
「私は師範代代理を頼まれてんだから、休む訳にいかないっての」
「じゃ、私も行かない。美和も行かないって言ってたし」
「そうなん?」
「うん、何か友達と約束があるんだって」
「へぇ、美和もとうとう兄離れすんのか」
「どうかなぁ、家では相変わらずべったりだけどね」
半分ほど残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干すと、春樹は立ち上がった。そして、もう休憩終わりだよと言いながら道場に戻って行く。
うぃーすと気のない返事を返して、だるそうに和香も立ち上がった。夏の昼下がり、嫌になるくらい暑い街の遥か上空に浮かぶくじら雲は何だか涼しそうで、まるで昼寝でもしてるかのようにのんびりと浮かんでいた。