143 臆病者たちのつぶやき
狭いバックヤードで在庫チェックをしていた店長に失礼しますと声をかけてから希羅梨は、ごちゃごちゃと物を積み上げているために狭くなっている通路を体を斜めにしてすり抜けて裏口から外に出た。
その途端、夜空をささやかに飾る星々が目に飛び込んでくる。
夏の夜はどこか明るくて、希羅梨は嫌いではない。賑やかな夜とでも言うのだろうか、冬と比べると夏はこんな時間でも街を行きかう人が多い。一人で歩く夜道が恐い訳ではないけれど、だけど寂しいより断然いい。
コンビニの、大型車も停められる広い駐車場の真ん中を突っ切り通りに出ると希羅梨は、すぐに赤信号で足を止めた。左手首に巻いている腕時計で時間を確かめる。最終バスに間に合わなければ大変だ、希羅梨は赤信号を睨みつけた。
「あ……れ?」
車がひっきりなしに行きかう道の向こう、希羅梨と同じように信号待ちをしている背の高いシルエットに左折した大型トラックのライトがまともに当たって、ようやく希羅梨はそれがよく知っている男の子だということに気づいた。おーいと手を振ると、頷いてくれた。信号が青に変わり、すぐさま希羅梨は走りだした。
「雪都くん、どうしたの?」
「まだいるかと思って来てみたんだが、今帰りか?」
「うん、そう。ナイスタイミングだったね」
車が通るたびに、雪都の薄茶色の髪がライトに照らされきれいに輝く。思いがけず知った顔に会えたせいだろうか、何だか希羅梨はひどく嬉しくなってにっこりと笑った。
「バスか?」
「うん。最終なんだよ、乗り遅れたら大変」
「んじゃ、歩きながら話す」
「何?」
先に立ってさっさと歩き出した雪都に、希羅梨は慌てて足を動かした。パタパタと追いついて、横に並ぶ。
雪都と希羅梨がつき合っているふりをしているのは学校の中だけのことだから、こんな風に外で会うことなんて滅多にない。ましてや、希羅梨のバイト先まで雪都が来たことなんてこれが初めてのことで、希羅梨は雪都の不機嫌そうな横顔を見上げながら首を傾げた。黒のポロシャツにジーンズという、雪都の私服姿も希羅梨にとっては珍しい。
「ね、どうかした?」
「あー、たいしたことじゃねえんだけど新見が、みんなで海に行きたいんだとよ」
「海?みんなって……」
「男は、新見と早坂と国嶋と阿部と俺。んで、女はお前と尾崎と中森と藤田だと。あと、阿部んとこの妹」
「あ、そうなんだ。じゃあ、私が他の女の子たちに声をかければいいの?」
「察しがいいな、お前」
「まかせてよ」
雪都の口数の少なさにはとっくに慣れた。バス停に向かって黙々と歩く雪都と並んで歩きながら希羅梨は、小さくぷっと吹き出した。
「何だよ?」
「いーえ、なんでもないよ」
「何でもなくて笑うのか、お前は」
「心配しなくても、中森さんは私が責任持ってちゃんとお誘いしましょう」
「だから、そうじゃないって」
「まだ気まずいままなんでしょ?仲直りするチャンスだね、ガンバ!」
「違うっつーに」
苦虫をまとめて潰したような雪都の顔に、希羅梨は余計に笑った。恋をして、彼は可愛くなったと希羅梨は思う。可愛いなんて言ったら、それこそ物凄く臍を曲げてしまいそうだから言わないけれど、だけどその身にまとっている雰囲気が柔らかくなったと思うのだ。
「あれ、飛鳥井さんは?」
「阿部が一応誘ってみるけど、多分来ないだろうつってた」
「ふーん、そっか。飛鳥井さんのおうちって、本当に厳しいんだね」
「みたいだな」
「で、それっていつ行くの?」
「来週の水曜だと」
「私、バイトだ」
「あ?」
「みんなで楽しんで来てね」
「てめ、自分は行かないつもりだな?」
「違うよ、バイトだから仕方ないでしょう?来週の水曜なんて、急過ぎるよ」
「じゃあ、日を変える」
「いいよいいよ、変えてもらってもきっとその日もバイトだから」
「要するに、行く気がないんじゃないか」
キャハハと明るく笑う希羅梨を、雪都は軽く睨んだ。だけど、すぐに視線を外して夜空を見上げる。
「いいんじゃないのか、海くらい一緒に行っても」
「ダメ、決心が揺らいじゃう」
「そんな無理してどうすんだよ」
「その台詞、そっくりそのまま雪都くんに返そうか?」
「……遠慮する」
前方にバス停が見えて来た。すでに四、五人が列を作って待っている。脱いだ上着を腕に抱え、ネクタイを緩めている会社帰りらしい男ばかりの列の後ろに希羅梨は並んだ。
雪都は、並んでないとわかるように列から二、三歩離れたあたりに立って、バスを待っている男たちにざっと視線を走らせた。
当たり前だけど、夜だ。この辺りは駅前で、まだ営業している店も多いから明るいが、希羅梨が住んでいる夕日町まで行くとそうはいかないだろう。雪都は無意識に顔をしかめた。
「家まで送るか?」
「え?」
「もう十時過ぎてんぞ、送る」
雪都がそう言うと、希羅梨は驚いた顔をあげた。本当に驚いているらしくて、大きな目がこぼれそうなほどに見開いている。
「いいよ、そんなの。いつも一人で帰ってるんだし、それに最終バスだって言ったでしょう?雪都くんが帰れなくなっちゃうよ」
「何とでもなる」
「いいって、本当に大丈夫。うち、バス停からすぐだから」
でもありがとうと、希羅梨は笑った。つき合うふりをし始めてからの一年と半年で何度も見た、何かを諦めてしまっているような静かな笑顔だ。
希羅梨のこの笑顔を見るたび、雪都は健気という言葉を思い出す。そして、やるせない気分になる。もしもこれが彼女なら……美雨だったら、遠慮しつつも送ってと言うだろう。美雨が筋金入りの恐がりで、希羅梨はそうでもないと言えばそれまでだけれど、だけどその差が何だかやるせない。
「お前、もっと我儘になっていいと思うぞ」
「それも雪都くんにお返ししましょう」
にっこり笑ってそう言われると、雪都には返す言葉がなくなる。雪都と希羅梨は、色々な意味で似た者同士なのだ。
「あ、バスが来た」
希羅梨の言葉に顔をあげると、派手な黄色にペイントされた四角い市営バスが近づいて来るのが見えた。
「みんなには、連絡しとくね。特に中森さん、全力で口説いてみせましょう!」
「自分は行かねえ癖に、何を言ってんだよ」
「それはそれ、これはこれ」
「勝手な奴」
「まかせてよ」
おどけて笑う希羅梨に、雪都は何かを言いたくなる。何を言いたいのかは、自分でもよくわからないのだけれど。
「じゃ、また電話するよ」
そう言うと、希羅梨は軽い足取りでバスに乗り込んで行った。希羅梨が乗るとすぐにドアが閉まって、ウィンカーが瞬き出した。
「バイバーイ!」
一番前の座席に座った希羅梨は、窓を開けて手を振った。雪都は手を振り返すことはせず、ただ少し頷いて見せた。
もうやめたと、希羅梨は言った。和馬に恋するのはもうやめたのと、七夕祭りの後にそう言って笑った。
恋なんて、やめようと思ってやめられるものじゃないだろうと雪都は思う。そんなことが可能ならば、雪都だってとっくに美雨を諦めている。
「……うまく行かないのな」
雪都の呟きは、賑やかな夏の夜にかき消されてしまった。
希羅梨は和馬が好きで、和馬はセスナが好きで。
雪都は美雨が好きで、美雨は阿久津が好きで。
誰一人として悪くないのに、だけど痛いほど苦しい。好きな相手を誰よりも何よりも大切に考えてしまう似た者同士が、二人して動けなくなっている。
いや、動けないのは相手のためだけではないだろう。
想いをぶつけてしまえば、きっと今の曖昧で優しい関係が壊れる。希羅梨は和馬の友人という位置をキープしたいし、雪都は美雨の幼馴染であり続けたい。だから動けない、壊したくないから。
臆病者、そうなのかもしれない。
雪都も希羅梨も、ただ臆病なだけなのかもしれない。
それでも壊したくない、彼女が誰よりも何よりも大切だから。
「海か、面倒臭せえな……」
小さく呟く雪都の視線の先で、希羅梨を乗せた私営バスが右に曲がって見えなくなった。