142 天使が眠る場所
ばふっと勢いよく布団に飛び込めば、ふんわりとおひさまの匂いがした。ふかふかの枕に頭を埋めて晴音は、「ふうちゃーん」と、数日前から永沢家に通っている家政夫を呼んだ。
「ふうちゃん、グリーン読んで!」
「はいはい、晴音ちゃんはグリーンが好きなんですねぇ」
「うん、好き」
風太郎はエプロンで濡れた手を拭きながら、晴音と両親の寝室になっている和室に入って来た。そして、晴音の一番のお気に入りである、ドラゴンの絵本を広げる。
「グリーンは、ドラゴン王国の王子さまです。お父さんは王さまで、お母さんは王妃さまです……」
読みはじめると、晴音は真剣な顔で絵本を覗き込む。晴音によく見えるように本を大きく開いて風太郎は、もうほとんど暗記してしまったグリーンのお話をゆっくりと読んで聞かせた。
「そうしてグリーンは、立派な竜王になりました。そして、いつまでも幸せに暮らしました、おしまい」
最後まで読み終わると晴音は、もう一回とねだる。はいはいと、また最初のページに戻して、風太郎は何度でも同じ話を読む。
きりがないから一回でいいぞと、雪都に晴音の世話の仕方を説明してもらった時に言われたが、風太郎はねだられたら何度でも読んでやることにしている。晴音の世話をするのが風太郎の仕事だからではない、こんなことぐらいで喜んでくれるならお安いご用だと思うのだ。
誰かの役に立ちたい、誰かを喜ばせたいと風太郎は思う。晴音が喜んでくれるなら、それだけでこんな自分でも生きている価値があるような気がする。
この春、大学受験に失敗した風太郎は、パートをいくつもかけ持ちして女手ひとつで育ててくれている母に浪人したいとは言えなかった。だけど、高校の先生が駆けずり回って探して来てくれた就職先でもうまくやれなくて、ちょっとしたことで辞表を書く羽目になったのは先月の初めの頃のことだ。入社してからまだ二ヶ月ほどしか経っていなかった。
「だけど時々、神様は思わぬいじわるをするのです。グリーンは、偉大な竜王として名高い王さまの子供なのに空が飛べませんでした。ドラゴン一族なら、生まれてすぐに飛べるはずです。だけどグリーンは、一歳になっても三歳になっても、五歳になっても飛べませんでした」
全てにおいて自分が普通より劣っていることを、風太郎は素直に認めている。成績も運動能力も、ついでに容姿も平均以下だ。その上、何をやらせても不器用で、ファミレスで料理を運べばトレイごとぶちまけてしまうし、コンビニでレジを打てば操作を間違えて店長に雷を落とされる。
何をやっても駄目だった、自分は何のために存在しているのだろうなんて思った。
「ふうちゃん、お兄ちゃんは?」
「雪都さんならさっき、お友達から電話があったようでお出かけになられましたよ」
「電話って、みゅうちゃん?」
「さあ、どうでしょうか」
最初に就職した会社を辞めてから、バイトを転々としながら正社員の口を探して職業安定所に通ってみたが、何度面接に行っても採用されなかった。半月ほど前に、つまづいて運んでいたジュースを客の頭の上にぶちまけて、喫茶店を首になってからはバイトも見つからなくなった。
母一人、子一人で暮らす小さなアパートの部屋で膝を抱えて風太郎は、こんなに役立たずなのにどうして自分は生きているんだろうと考えた。母に迷惑をかけているだけだと、そんな風に思いつめていた。
「みゅうちゃんとデートならいいなぁ」
「美雨さん、でしたっけ?雪都さんの彼女さんですよね」
「そう、みゅうちゃん!お兄ちゃん、もう少しでふられちゃうとこだったの」
「そうなんですか?」
「そうそう」
毎日毎日、安アパートの部屋の隅で膝を抱えている風太郎を案じて、母は知り合いに声をかけて風太郎の仕事を探してくれていたらしい。家政婦紹介所をやっている友達が夜遅くまで働ける家政婦を探しているからやってみる気はないかと、パート先から母が電話して来たのは数日前のことだ。
家政婦なんて男がする仕事じゃないかもしれないけれどと母は言ったけれど、風太郎はすぐに立ち上がっていた。半月間も引きこもっていた部屋を飛び出し、風太郎も何度か会ったことのある母の友人が経営している家政婦紹介所に駆け込んだ。そして、この永沢家の住所を訊いてまた走り出したのだ。
縋るような気持ちだった、これが最後のチャンスのような気がした。ドクドクと、跳ねる心臓をなだめながら呼び鈴を押すと、風太郎とそれほど歳の違わない、だけど風太郎よりも数十倍も格好いい男の子が出て来た。
それが晴音の兄、雪都だった。
上の息子が受験だから、下の娘の世話をしてくれる家政婦を探しているということは紹介所で聞いていたから、風太郎はすぐに彼が受験生なのだなとわかった。雪都は何も聞いていなかったようで、風太郎が突然来たことに驚いていたようだけれど、それでも風太郎を家にあげて冷たい麦茶を出してくれた。
風太郎が汗を拭き拭き麦茶を飲んでいる間に、雪都は母に電話をしていた。確かに母が頼んだということを確認してから雪都は、風太郎にざっと家の中を見せた。詳しいことは親に訊いてくれと言われたので、そのまま永沢家の両親が揃って勤めている病院に向かった。そして永沢婦長、つまり雪都と晴音の母親に会って、精一杯勤めさせていただきますと頭を下げた。
「みゅうちゃんね、すっごくお料理が上手なんだよ」
「へえ、それはいいですねぇ」
「ふうちゃんも上手だよ、お料理」
「今日のカルボナーラは、美味しかったですか?」
「おいしかった!」
死に別れたのか、離婚したのか知らないが、風太郎が物心つく頃にはすでに父はいなかった。パートで忙しい母に代って、風太郎がキッチンに立つようになったのは小学校に入学する前だった。最初の頃はとても料理とはいえない代物ばかりを作っていたけれど、母はどんな失敗作でもおいしいよと言って食べてくれた。
成績も運動神経も、ついでに容姿も人並み以下だけれど、風太郎は料理だけは少しばかり自信がある。ついでに、洗濯も掃除も嫌いではない。家政婦なんて男がする仕事じゃないと母は言うけれど、風太郎はもしかしたらこれが天職かもしれないと思っていた。
「晴音ちゃん、そろそろ寝ないと。明日も保育園ですよ」
「あ……うん」
晴音は保育園があまり好きではないのか、風太郎が保育園のことを持ちだす度にうつむいてしまう。髪の色があんなだから友達が出来ないんだと、雪都が言っていた。風太郎は晴音のきれいなピンクベージュの髪をそっと撫ぜた。
「おやすみなさい」
「私が寝てもふうちゃん、帰らない?」
「はい、雪都さんが帰って来るまでいますよ」
雪都が出かける時、風太郎は何時になってもかまわないと言っておいた。晴音は自分が見ているから、どうぞ気にせずゆっくりして来てくださいと言った。幸いなことに、風太郎のアパートはここから自転車で帰れる距離なのだ。バスや電車で帰る訳ではないから、真夜中になっても困りはしない。
「ふうちゃんが、ずっとずっとうちにいてくれたらいいのに」
「僕は、住み込みの家政婦じゃないですからねぇ」
「住み込んじゃえば?」
「そうしたいところですけど、僕が帰らないと母が一人になってしまいますから」
「そっかぁ、ふうちゃんママが可哀想なんだね。それなら仕方ないなー」
晴音のピンクベージュの頭を風太郎はポンポンと軽く叩いた。優しい子だ、本当に。この子の世話をさせてもらえることになって、本当に自分はついていたと思う。
朝の八時に出勤して、晴音を保育園に送って行ってから午前中に洗濯や掃除を済ませれば一旦、風太郎の仕事は終わりになる。次は夕方の五時に再び出勤して、晴音を保育園に迎えに行ってから食事を作り、後片づけをして、そして晴音が眠るまで面倒を見る。
晴音は九時頃に寝てしまうこともあれば、十一時近くまで寝ないこともある。だけど、どんなに遅くなっても風太郎は楽しかった。要は、得意な家事をしながら晴音と遊んでいるだけなのだから、こんなに楽しい仕事はない。
家政婦というのはほとんど、普通の主婦がパートで勤めているからそんなに夜遅くまでの仕事はやり手がいない。しかも、日に二度も行かなくてはならないのだから尚更だ。
十和子からの電話を受けた時、家政婦紹介所の所長はこの依頼は断ろうと思ったらしい。だけど、ふと友人から息子の仕事を世話して欲しいと頼まれていたことを思い出したのだそうだ。
いくつかの歯車が見事に噛み合って風太郎は今、ここにいる。ほんの数日前まで、生きる価値がないと思いつめていたのが嘘のようだ。
「じゃあね、明日は早く来て」
「いいですよ、おいしい朝ごはんを作りましょうか」
「やった!」
契約では、風太郎が作るのは昼食と夕食で、朝食は風太郎の仕事ではない。だけど、晴音の頼みなら、一時間くらい早起きするのは何てことない。
「めんたま焼きね」
「はいはい、めんたま焼きですね」
ぽんぽんと、晴音の頭を優しく叩いてやる。約束だからねと言いながら、晴音は目をつぶった。
やがて、静かな寝息が聞こえて来ても風太郎は動かなかった。昼間、風太郎が干しておいたふかふかの布団の上で丸くなって眠る晴音の寝顔を見ながら風太郎は、ようやく自分の居場所を見つけたような気がしていた。