141 海に行こう
海だっ!と、拳を握って力いっぱい叫んで一人勝手にテンションをあげている創太を和馬と伊佐美は無言で見つめ、雪都と真琴はすーっと目を逸らした。
夜の九時を過ぎたバーガーショップはすいていて、他に客は会社帰りらしいスーツを着た若い男が一人と、女子大生っぽい二人組が窓際の席に座っているだけだった。被害者が少なければいいというものでもないだろうが、いつもは創太の声の大きさを注意する真琴も今日は何も言わない。
「何だよ何だよ、そのしらっとした空気は!夏と言えば、海だろ!アオハルだろ!今、海に行かずにいつ行くってんだよ。青い海、白い砂浜、入道雲。スイカ割りにビーチバレーにかき氷。海だ、水着だ。姫宮さんはビキニだろうな、永沢っ!」
創太からあからさまに目を逸らし、明後日の方向を向いたままで雪都は紙コップのアイスコーヒーをズズズッと飲んだ。
まあ、創太から出て来いと電話がかかって来た時点でこんなことだろうとは思ったが、それにしても大当たり過ぎで笑えない。創太の呼び出しなんて無視すりゃいいと毎回思うのだが、それなのになんとなくこうして来てしまうあたりが、この新見創太という男が持つ不思議なパワーかもしれない。それが証拠に、創太の突然の呼び出しを食らった全員がこうして雁首を揃えている。断言してもいい、全員が今、無視すりゃよかったと思っている筈だ。
「なあ、一日くらいはいいだろ?みんなで海に行こうぜ、高校生活最後の夏休みなんだからさぁ」
確かに、創太の言うことは一理あるかもしれないと雪都は思った。今年は、高校最後の夏だ。今は電話一本でこうして集まれるけれど、来年からはそうはいかないだろう。
雪都と和馬、そして伊佐美は同じ明条大志望だが、合格できなければどこか地方の大学に行くことになるかもしれない。
創太は、あちこちの私大を片っ端から受けるらしいから、それこそどこに行くかわからない。
真琴は、北海道の大学を志望している。そんな遠くの大学を志望した理由は涼しそうだから、だそうだ。もっとも、真琴が何か複雑な事情を抱えているらしいことは、みんな薄々知っている。真琴は自分のことは何も話さないけれど、それでも三年も一緒にいれば何となくわかるものだ。
とにかく、来年はバラバラになるだろうことは既に決定だ。女の子たちも一緒にということなら、確かに今年は最後のチャンスになる。
「俺らってさぁ、学校では何となく固まってるけどさ、今までみんなでどこかに行ったことってあんまなかったよなぁ。なあ、行こうぜ。何も泊まりで行こうって言ってんじゃないって。息抜きに一日だけ、な?」
全員が創太の呼び出しなんて無視すりゃよかったと思っているのは明らかなのに、それでも誰も反対しないのは、やはりみんなの頭の中にもこれが最後だという気持ちがあるのだろう。行くかと、ぽつりと言ったのは和馬だった。それに、伊佐美が大きく頷いた。真琴は、ずっと柔らかく微笑んだままだ。
「マジか―っ!本当に行くんだな?和馬、お前って実はいい奴だったんだな。飛鳥井さんに、水着はビキニでよろしくつっとけよ」
店中に、創太の大声が響き渡る。女子大生らしき二人組が、慌てたように席を立った。カウンターでは、店長らしき大柄な男が身を乗り出すようにしてこちらを睨んでいる。
「創太、わかったから叫ぶな。海な、お前らも一日くらいならいいよな?」
和馬がそう言うと、伊佐美はもう一度頷いた。真琴は、仕方ないなぁという顔だが行く気になったらしい。雪都は、溜息と共に手に持っていた紙コップをトンッとテーブルに戻した。
海なんて、考えただけでも暑そうでうんざりする。疲れそう、ものすごく疲れそう。だけど、一日くらいなら我慢できるかと雪都は、渋々ながらに頷いた。
「あー…っと、妹たちも連れてっていいか?」
「オッケーオッケー、女の子はウェルカムよ!」
「一応、声はかけてみるけど、セスナは来ねえと思うぞ」
「何ですと?」
「雪都は、晴音連れて来るんだろ?」
いや、と首を横に振った雪都に、和馬は「ん?」と訊き返した。
「家政夫を雇ったんだよ、だから晴音の世話はしなくていいんだ」
「へー、家政婦?」
「ああ、何かいきなり晴音がすげえ懐いちまったから、置いてっても全然問題ない。あんなちょろちょろすんのを海なんかに連れてくと、面倒だからな」
家政婦紹介所から山辺風太郎なる、どう見ても家政婦には見えない男がやって来た時には絶対に何かの間違いだと思ったが、慌てて母に電話して確認してみたら、確かに頼んだと言う。それなら言っとけよと思ったが、母もこんなに早く来るとは思っていなかったそうで驚いていた。何と言っても十和子が電話帳で見つけた家政婦紹介所に電話したのは、その日の朝のことだったらしいのだ。
風太郎はとりあえず挨拶に来ただけだそうで、家の中をざっと見せるとすぐに帰って行った。その足でそのまま十和子の勤めている病院にも行って、十和子と話をしたらしい。そしてその翌日から風太郎は、家政夫として永沢家に通って来るようになったのだ。
風太郎は朝の八時におはようございますとやって来て、晴音を保育園に送ると洗濯や掃除を午前中にこなし、勉強をしている雪都のための昼食の準備をして昼前に一旦帰って行く。そして、また夕方の五時に来て晴音を迎えに行き、そのまま晴音を寝かしつけるまでいてくれる。要するに、雪都が受験勉強に打ち込めるようにと雇われた家政夫な訳だ。
気に入った特定の人以外にはなかなか懐かない晴音が、その優しげな風貌のせいか風太郎にはすぐに懐いた。今も晴音の面倒を見てくれている、だから雪都はこんな時間に一人で出歩いていられるのだ。
「晴音の相手なら、うちの美和がするぞ?連れて来てやれよ、すげえ喜ぶぞ」
「いいって。それよか、俺は姫宮に声かけとけばいいのか?」
「そうだな。後は、姫宮から春樹と中森と藤田に言っとくよう頼んどいてくれ」
「……中森?」
「女子の連絡係は、姫宮に任せていいよな?」
「ああ……それは、いいだろ」
「んじゃ、日を決めるか。都合の悪い日は、あるか?」
言いだしっぺは創太なのだが、いつの間にか和馬が場をしきっている。いつでもどこでも自然とリーダーになるのが、阿部和馬という男なのだ。
同じような成績、同じような運動能力でずっと和馬と競い合っている雪都だが、こういうところだけは全く敵わないと思う。すげえなと素直に思うが、真似は出来そうにない。
「土日は混むから避けた方がいいな、平日にしようぜ。来週の水曜あたりでどうだ?」
てきぱきと皆の都合を聞いて日を絞って行く和馬を見ながら雪都は、アイスコーヒーの氷を口に含んだ。
和馬は、中森にも声をかけるようにと言った。当然だろう、希羅梨のおかげで彼女はもうすっかりこのグループの一員になっている。
……行くと言うだろうか?
行かないと言うような気がする。だけど、もしかしたら。
カリカリと、雪都は氷を噛んだ。彼女と一緒に海に行く、そう思っただけで勝手に熱くなる体を雪都は、無意識に冷やそうとしていた。