137 あの日の花火
ベッドの上に学生鞄をドサッと放りなげておいてから、雪都はTシャツにジーパンというラフな服装にだらだらと着替えた。
脱いだ制服は、しばらく着ない。終業式を終えて、明日から夏休みだ。
普通、高校三年生ともなれば担任の夏休み中の諸注意は勉強に関することになるのではないかと思うが、雪都たちの担任である来栖涼華は、冷たいものを食べすぎるなとか腹を出して寝るなとか、海に行く時はお父さんかお母さんについて来てもらいましょうとか、どこまで本気でどこまで冗談なのかわからないこと並べ立てていた。
どうでもいいけど、一分一秒が貴重な受験生にとってあの担任はどうなのかと思う。いや、まあいいのだけれど。
一学期の成績は、いつもと変わらなかった。部活を辞めて、時間的に少しは余裕が出来たのだから勉強時間は増えた。だから上がるだろうと思っていたのに、今日もらった成績表は二年の三学期と全く変わらなかったのだ。
このままだと合格は難しいかもしれない、この夏休みは性根を据えて勉強しなくてはならない。
脱いだ制服を丸めて、机の上に置いてあるデジタル時計を見ると正午を少し過ぎたところだった。何か昼を食べて、それから勉強しよう。晴音を迎えに行くまで、かなり時間がある。
そう思うのだけれど、どうにもやる気が出なかった。食欲もあまりない、暑いせいだろうか。夏バテしている暇なんてないのに、全然ダメな感じだ。
ベットに倒れ込んで不貞寝してしまいたい誘惑になんとか打ち勝って、雪都はとりあえず一階に下りた。洗面所に寄って制服を洗濯かごに放り込んでから、キッチンに向かう。
食欲はない、だけどバテる訳にはいかないから何か食べた方がいいだろう。冷蔵庫を開けててみると、今朝は遅番だった母が出勤前に作って行ったらしいポテトサラダがあった。その大きなサラダボールとアイスコーヒーのペットボトルを出して、食品ストッカーの上にのせてある食パンを一枚取ってトースターに放り込んだ。
朝食は和食だったから、昼はパンでもいいだろう。食パンを焼く以上の調理を雪都はする気になれなかった、お湯を沸かしてカップ麺を作るのさえ面倒だ。
ダイニングテーブルのいつもの自分の席に座って、焼きあがったトーストを何も塗らずにかじると、さくっと微かな音がする。晴音がいないとこの家は、針を落とした音さえ聞こえてしまいそうなほど静かだ。表の道を通り過ぎるバイクの排気音がやたらと大きく感じる。
さっさと食べて勉強しようと雪都は、ポテトサラダを口に放り込んだ。その途端、彼女を思い出してしまうのだからめり込む。
母のポテトサラダは、調理時間を短縮するためかサイコロに切ったじゃがいもを茹でてそのままの形で入っているのだけれど、彼女のはきれいにマッシュポテトになっていた。コーンが入っているのは同じ、晴音が言うところの『ぽてころサラダ』だ。
どちらがおいしいとか比べる気は全くないけれど、だけど思い出してしまう。
今日もまた、一言も喋らなかった。昨日も、そして一昨日もだ。
彼女は雪都のすぐ斜め後ろに座っているのに振り向くことさえ出来ないなんて、俺ってこんなに弱気だったか、そんなことない筈だと思うけれど、だけどやっぱりどうしようもなくて。
あの日、何か間違えただろうか?
手を繋いだ、離せなかった、あれが悪かったろうか。
だけど、彼女は離してとは言わなかった。
子供の頃みたいに手を繋いで、彼女と並んで花火を見た。夜空に艶やかに咲いた炎の花を、二人黙って見上げてた。
アイツのせいだとは、思いたくなかった。あの時、あの男が現われなかったらこんな風に気まずくなることはなかったなんて、そうは思いたくなかった。それを認めてしまうのは、今の雪都にはあまりに痛過ぎた。
好きだという気持ちがこみ上げて来る、彼女を想うだけで体のどこか奥底がぎゅっと苦しくなる。
言うつもりはない、彼女の気持ちは知っているから困らせるつもりはない。
幼馴染でいい、それで十分じゃないかと思う。美雨が幸せになること、それが雪都の願いなのだから。
だけど、胸に秘めた想いは日毎に大きく膨れ上がって行くようで、いつか手に負えなくなるような気がする。抑えられなくなったらどうなるのだろう?傷つけたくないのに、ほんの少しも傷つけたくない。
「……」
雪都は、半分ほど食べたトーストを皿に戻した。アイスコーヒーを、ブラックで胃に流し込む。
「……んだよ、これ。何もこんな時期に……」
自分はこんなに女々しかったろうか?
そんなことない筈だと雪都は即座に否定する。
だけど、雪都の頭の中を占めているのは美雨ばかりで。
勉強しなくてはならない、医学部に進んで医者になりたい。父のように、そして母のように人の命を救う術を学びたい。
今は忘れるべきだ、勉強に打ち込むべきだ。どうしてもこの想いにけりをつけたいのなら、受験が終わってからでもいいだろう。彼女だって受験なのだから、こんな大切な時期に雪都の勝手で揺らす訳にはいかない。
皿に半分残ったトーストを睨みつけたが、もうどうしても食べる気にはなれなかった。雪都は、皿を持って立ち上がった。食べ残したトーストはゴミ箱に捨てて、ポテトサラダはラップをして冷蔵庫に戻す。使った皿を洗おうと水道の蛇口をひねったその時、玄関でピンポンと呼び鈴が鳴った。
雪都は水を止めて、濡れた手をふいてからインターホンを取った。はい、と言うと受話器から何か答える声が聞こえたけれど、インターホンから離れて喋っているのかよく聞き取れない。男の声のようだったが、女の声のような気もした。
雪都はちょっと待ってと断ってから受話器を置き、玄関に向かった。たたきに降りてスニーカーをつっかけ、ドアを開けると小柄な、一瞬女かと見間違えるほど華奢な男が一人立っていた。
「あ、すみません、永沢さんのお宅はこちらですよね?僕、家政婦紹介所から来ました、山辺風太郎といいます」
「は?」
「どうぞよろしくお願いします」
ぺこんと頭をさげた男を、雪都は呆然と見下ろしていた。家政婦って何、聞いてないんですけど。しかも、家政婦じゃないし。いや、そんなことはどうでもいいけど、これってナニゴト?
「あの、何かの間違いじゃ?」
「こちらは、永沢秋雪さんのお宅ですよね?でしたら間違いないです、どうぞよろしくお願いします」
そう言って風太郎はにっこりと笑うと、もう一度ぺこんと頭をさげた。