136 苺が好きな理由
朝、美雨が着替えて階段を降りて行くとコーヒーの匂いがしていた。どうやら今朝は父が帰って来ているらしい、美雨は一人でふふっと笑った。
キッチンのドアを開けておはようと声をかけると、テーブルについて新聞を広げていた草一郎が顔をあげた。おはようと父が答えるのを聞いてから美雨は、顔を洗いに行った。
「今朝は、ずいぶんと寝坊だったな」
「だって、今日は終業式だからお弁当作らなくていいんだもん」
「もう明日から夏休みか、早いな」
美雨が身支度を済ませてキッチンに戻ると、朝食の準備が出来ていた。学生はいいよなーなどと言いながら、草一郎がトーストにマーガリンを塗っている。
「お父さん、忙しそうだね」
「おお、忙しいぞ。聞いて驚け、月末のショーの準備がまだ出来てない」
「それって、まずいんじゃないの?」
「マズいぞ、ヒジョーにマズいぞ」
「無理して帰って来なくてもいいよ、私は一人で大丈夫だから」
「何を言うか、美雨は大丈夫でも俺が大丈夫じゃない。美雨の顔を見ないと、エネルギーが切れる」
「じゃあ、今はエネルギー充電中?」
「そうだ、まかせろ」
何をまかせればいいのかわからないけれどとりあえず、美雨はいただきますと両手を合わせた。マーガリンを塗ったトーストと目玉焼き、こんがりと焼けたベーコンにミルクをたっぷり入れたカフェオレ。それに、デザートには美雨が大好きな苺だ。
「美雨、野菜が何もなかったぞ」
「うん、今日の帰りにお買い物に行くよ」
「お父さんもお母さんも、ショーが終わるまでは晩飯には帰って来れそうにないからな。夏休みなのに一人で寂しかったら、美雨が事務所においで」
「大丈夫だってば、一人で平気」
「そうか?」
「もう十八だもん、そんなに心配しないで」
朝も無理して帰って来なくてもいいんだよと言いながら美雨は、カフェオレを飲んだ。仕事が忙しい両親は、ほとんどずっと仕事場に泊まり込んでいる状態だ。だけど、どんなに忙しくても一人娘の美雨を放っておくことはせず、毎日という訳にはいかないようだけれど週に何度かは、父か母のどちらかが美雨が登校するまでの短い時間を狙って帰って来ては、こうしておいしい朝食を作ってくれるのだ。
紅茶好きの母が帰って来た時には紅茶の匂いがするし、コーヒー好きの父が帰って来ていればコーヒーの匂いがする。砂糖の入った甘いカフェオレを飲んで美雨は、おいしいよと笑った。
「美雨、家庭教師な、探してるんだがまだ見つからないんだ。ごめんな」
「ううん、私が急に頼んだんだもん。お父さんは、謝らなくていいよ」
「予備校は、駄目か?」
「うーん……駄目ってことはないんだけど、ちょっと私に合わないみたい。ほら、夏休みは受験の正念場って言うでしょ?だから、家庭教師の先生についてもらって、みっちり勉強したいなと思って」
「そうか。うん、なるべく早くいい先生を見つけるからな」
「お願い」
美雨はこれまで、大好きな両親に何でも話して来た。阿久津に憧れていることさえ話した。もっとも両親は、美雨の一途な想いは思春期にありがちなただの憧れで、恋だとは思っていないようだけれど。
そんな美雨が、今度ばかりは本当のことを言えずにいた。あの七夕祭りの夜、彼に言った言葉が嘘にならないように予備校を辞めたとは、どうしても言えなかった。
美雨は、急がないと遅刻しちゃうと言いながら草一郎が作ってくれた朝食を食べた。本当は時間の余裕はたっぷりあったのだけれど、何となく気まずくて急いで食べた。デザートの苺まで食べて、ごちそうさまと手を合わせる。
苺が好きと、美雨が言ったのはまだちゃんと口が回らないような小さい頃だったらしい。美雨自身は自分がそんなことを言ったなんてまるで覚えていないのだけれど、父も母も美雨の一番の好物は苺だと思っているから朝食のデザートにまで苺が出て来る。パンや卵なんかは美雨が買い置いていた物だけれど、苺を買った覚えはないからこれは草一郎が買って来てくれたものなのだ。
真っ赤に熟した苺を見るたび、両親の愛を感じる。こんなに大切にされているのだから、さびしいなんて言ったら駄目だと思う。いい子にしてなきゃ駄目だと思う。
「そうだ、美雨。これを飛鳥井さんに渡してくれるかい?」
「飛鳥井さん?」
「そう、飛鳥井殿はお母さんの大ファンなんだぞ」
「知ってる、飛鳥井さんに聞いた」
草一郎が差し出したものを受け取ってみると、それは封筒だった。飛鳥井セスナ殿と、父の字で表書きされている。
「これ、何?」
「今度のショーの招待券だよ。飛鳥井さん、興味あるだろうから見たいかと思って。でも住所は聞いてないから、送れなくてね」
「ショーって、まだ準備が終わってないやつ?」
「そうだ、ヒジョーにマズい。子供服雑誌の主催で何社か協賛しているショーだから、いい加減なものは出せないんだよ」
「へえ……」
「わかった、忘れずに渡すよ」と言うと、草一郎は頼むと言いながら立ちあがった。そして、食べ終わった食器をカシャカシャと重ねて行く。
「後片づけ、手伝うよ」
「いいよ、もう時間がないんだろ?」
「それくらいは平気、手伝う」
美雨も自分が使った皿を重ねて、それを流しに運んだ。じゃあ、美雨はテーブルを拭いてと渡された布巾を受け取り、まかせと笑って見せた。